自由を叫べ
平らに舗装され、薄いベージュの色に染められた道がわたしの新しい帰り道だ。歴史どころか土を感じさせない地面は、靴が妙に快活な音を鳴らす。白いゴミも黒いゴミも小さいゴミも薄いゴミも、全てのゴミが馴染まない道。途中の、枝分かれした先で待ち構える明るい洞穴に吸い込まれる。この街の建物はどれも広すぎて仕切りが明確でないので、穴と例えたほうが適切な気がする。無数の照明で彩られ、床に影を作る余裕すらない。そこを子供がそこらじゅう駆け回り、ベタッとコケては大泣きする。慌てるのも疲れたのか、倒れた体をゆっくりと起こす大人。「わーん」という泣き声に「゛」がついて「わ゛ーん」という叫び声になる様を、この街に移り住んで一ヶ月足らずの間何度も聴いた。そのどれもが、いつまでもこだましていた。
わたしの朝は、コンロに火を入れて雪平鍋で味噌汁の準備をすることから始まる。今でもとにかく朝が苦手で、朝が始まる一時間前には起きていたいのだけれど、いつも10分ほど寝坊している。残りの50分で、弁当と少し多めの朝ごはんをなんとかこさえ上げる。
机は台布巾で綺麗に拭きたいし、掃除機は毎日かけるようにしてる。洗い物はなるべく早く終わらせたいし、残り物はリメイクして次の朝ごはんかお弁当にしたい。ジップロックに買った食材を入れながら、シンク下収納の計画をあれこれ考えると、時折、昔の友人の声が自動生成され、横入りしてくる。「なんか普通の女になったよね」「あんなに破天荒やってたのに、今はつつましくしてるんだね」
こういう風になりたいと熱望している方ではなかったから、みんな驚いているらしい。この家に引っ越す時も随分実家の親に心配されて、レトルトの食材が送られてきた。
そうだよ、わたしは今でも破天荒だ。だってそんな声が聴こえてきたら、その全ての声をかき消すように、木のまな板を水でさっと洗い、包丁を鳴らして、コンロの火力を上げ、換気扇を「強」にした。わたしが今聴いていいのはこの音だけで、他の雑音が聴こえると料理が美味くできなくなってしまう。
全てが隙なく綺麗にまとめ上げられたこの街で、唯一素直なのは、コケると「わ゛ーん」と叫ぶ子供だけ。あの時、体を起こす大人の表情は、直視できなかった。
きちんと素直でいないと、自由を叫べないと、影のない床で休みなく踊らされそうだ。操るのも、操られるのも自分。平らに舗装された道は、もう後戻りできない。
キッチンから見えるマンション群の明かりは、ちかりちかりと点滅していた。
明日の献立はもうすでに考えた。大量のレトルトカレーをシンク下の一番奥にしまいこんで、やがて靴音のする玄関へ向かった。
この街
年内に引っ越すことになった。
最初にこの家に足を踏み入れたのが2018年の3月だったから、ちょうど桜が咲きそうな頃だったと思う。でも桜を見た記憶はない。たった一人で生きることは思っていたより大変なことだった。自分の日々を自分の力で支えるのに必死だったのだ。
長い間氷の部屋の中で生活してきた魚のように、わたしは物を知らないのだなと思った。けれど、この8畳一間の部屋で少しずつ構築していったルールは、なじんだ場所にとどまっていたわたしに大きな一歩をくれた。
引っ越しの荷物を押入れから出していると、この家で一度も袖を通さなかった服がくちゃくちゃになって出てくる。手でのばし、こんなに幼い服なんて着てたっけなと思いながら、リサイクルショップに持っていくために別に小分けにしておく。
次々と服を出していると、ぐちゃぐちゃに握りつぶされたカーボン紙が出てきた。一見ゴミだったが、念のため開いて、思わずあっと声を漏らした。
引っ越して間もない頃、失恋した。心の隙間にいつか入れるようにと、彼の家に少しずつ置いていったわたしの私物は、まだ真新しかったこの家の住所に一気に送りつけられた。会う気もないんだなとある意味吹っ切れた一方で、送付票に刻まれた名前に妙な熱を感じてしまい、どうしても捨てることができなかった。その時一番近くにいてくれたともだちが「部屋のどこかに置いといて、いつか忘れた頃に拾って思い出して、『そういえばあの頃捨てられなかったな』って思えればいいんじゃない?」と言ってくれた。次の日のことも考えられないほど悲しかったけど、あの子の言葉を信じて、洋服の山の中に隠しておいたのだった。それが、今だった。あの頃のわたし、結構かわいいじゃないか。思わず小さく笑ってしまった。
『そういえば捨てられなかったな』って、本当に思えたよ。ってあの子に知らせたかった。けど知らせなかった。
28歳にもなると、生き方の選択肢はぐっと多様化する。同じ学校にいた時までは揃っていたわたしたちの足並みは、いつのまにか別の方向を向いていた。だからまたあの子と会っても、今はどうやって話せばいいかわからない。昔と今の違いに、少し怖いような気さえする。でも、いつかどこかで足並みが揃うような気もする。その時になるまでこんな話、覚えているかわからないけど。送付票を捨て、作業を再開した。
この街では一人で過ごすことが多かった。複雑な交差点、今にも倒壊しそうなたこ焼きの屋台、階段を上がったところにある安いチェーンのカフェ、スーパーの中のドラッグストア。そのどこへ行っても、誰も知らないわたしが息づいている。それらに、今のわたしはじっと見られているような気がするのだ。どれもなにかに飢えているような表情で、でも少し懐疑的な目で。
大人の遊び
優しいことばをかけてくる人は、本当に優しい心を持っているんだと思っていた。
腹の奥から、優しい気持ちが自然に湧き出ている。まるでベビーパウダーのように細かい粒子が常に体のそとへ漏れ出し、まわりにふわふわと心地よい溜まり場を作っている。体内に残ったものは、たまに上の方まで優しく流れて来て、食道の付近までくると声の波に乗せ、頃合いを見て塊の優しさとして放出される。
優しい人の優しい気持ちが粒子の細かいベビーパウダーだとしたら、わたしの気持ちは一枚の羽みたいなものだ。羽毛ぶとんからぴょんと飛び出た羽を取るように気持ちを見つけて拾っては、声に乗せてふっと飛ばす。怒っている時や悲しい時、あるいはやる気のない時、羽は根元を剥き出しにして吹き矢のように激しく飛ぶ。羽を見つけたら飛ばす。また見つけたら飛ばす。それしかこの胸の内に芽生えた気持ちを伝える方法を知らない。
見つけて飛ばすくせに、人が羽を向けてきたら拒む。人の声に乗った吹き矢が飛んできたら吹き矢で追い返すし、優しい羽が飛んできたら入ってこないように守る。もし入ってきたら、どう対処していいかわからないから。
心理カウンセラーの先生は、ベビーパウダーの人も、もしかしたら羽を粉々にしていだけなのかもしれないですよ、と言った。
溢れ出ているベビーパウダーは、本当は鋭利な根本を持つ羽をすりつぶしていることもあるから、わたしもベビーパウダーの人になれる可能性があるらしい。生まれた羽のままをぶつけてきてくれる人も、それはそれで魅力的ですけどね、と先生は一言付け加えた。
でも、これからはできるならベビーパウダーの人になりたい。
思ったことをなんでも素直に言うことが必ずしも正義ではないんじゃないかって、なんとなくずっと思ってた。そういえば、そんなわたしに疎ましい目を向けてくる人が今までいた気がする。
相手の表情を垣間見て、声のテンポを掴みながら、優しく微笑んで、時に言葉を発する。それは、なにかを少し知った者だけができる、高尚な遊び。その遊びをする人が少し前までは眩しく見えてたが、今もう少し頑張ればできるような気がする。
達筆な男
もう何年も会ってないのに、ふと、「今何してるんだろう」と思い出す人が何人かいる。
彼もそのうちの1人だった。
リンは、当時周りにいた男性達とは若干違う立ち位置にいた。当時の交友関係といえば、半年も経てばほとんどが入れ替わりになるようなものすごい変化っぷりだったけど、リンとの関係はなぜかしばらく続いた。
リンはつかみどころのない男だった。ガラケーのキャリアのメールアドレスで連絡を取るのが当たり前だった2000年代初頭、アドレスを教えてくれないのでずっと捨てアドと呼ばれていたフリーのメールアドレスで連絡を取っていた。会う部屋も、6畳一間の日もあれば、シェアハウスのような場所の時もあった。そして何度も会っていたのに、彼はわたしにずっと「リン」と名乗っていた。
本当の名前を教えてと何度もお願いしたけれど、たまに高田延彦と答えるくらいで、結局教えてくれなかった。なぜ頑なに名前を教えないのか、わたしがもう少し大人だったら薄々感づいていたのかもしれない。あの時はまだ子供すぎて、よくわからなくて、リン、そしてたまにノブと呼んでいた。
どうしても本当の名前を知りたかったわたしは、ある日の夕方、一緒に寝ているベッドをそっと抜け出し、名前の手がかりになるようなものを探すことにした。バンドスコアやCD、ほこりに埋もれた机の上を、一枚一枚、一冊一冊、指先で丁寧に退けていく。あと少しで机が見えると思った瞬間、携帯電話の契約用書類を発見した。一目で男性のものとわかる、無骨な感じが並ぶ名前。トメ・ハネ・払いを完璧に抑えた、力強くて立派な字だった。
正直、とても驚いた。こんなに生命力に溢れた字を今まで見たことがなかったし、それがリンの部屋の一番奥の場所にあったから。でも、彼の名前だと確信した。わたしは、頭の中で何度も復唱した。
リンと会わなくなって数年経っても、ごくたまに、ぼんやりするとあのトメやハネを頭の中でなぞることがあった。
その名前で検索してみたこともある。
何があったか知らないが、明らかに私怨と思われるリンの中傷をする書き込みが目立った。リンの出身地、家族に関する記述、そして今の暮らし。本当のことがどのくらい書かれてるのかわからないけど、誰かの憎しみのおかげで、わたしはリンの近況と、どうしてリンがリンの全てを教えてくれなかったのかを知った。
それからずっと、リンのことなど頭の中から消え去っていた。
今日の夕方は、久しぶりに長い打ち合わせだった。
目の前の席には、初めて会う取引先の人がいた。目が合い、会釈をした。打ち合わせが終わり「ご挨拶が遅れましたが」と差し出された名刺には、あの名前と同じ苗字が書かれていた。
あっ、と思ったと同時に、ベッドから抜け出してようやく見つけたあの立派な字のことを、まるで昨日のことのように思い出した。
久しぶりにリンの名前で検索してみた。
その名前の下には「容疑者」と付いていた。
特殊詐欺事件に、リンは受け子として関わって逮捕されていた。
一通り固まったあと、わたしは自分の名前を、目の前のノートに書き記してみた。一字一字、やや右に上がっている。ここ3年くらいの癖だ。
書道が大好きだった小学生の頃からは考えられない、中心を避けるように踊る字。そのおかげでバランスが取れてるんだか、結局取れてないんだか。
弱きものを騙した手で、リンは今でも、立派な字で名前を書いているのだろうか。
わたしはもう一度、頭の中であの立派な字の輪郭をなぞった。
会社を休んだ日は
目が覚めるとみぞおちのあたりがひどく痛んだ。開けっ放しのトイレに駆け込んでしばらく踏ん張る。鼻で叫ぶ。腹を目一杯さする。
昨夜は料理する気も起きない日で、随分昔に買っておいた激辛インスタント麺を茹でた。電子レンジで。丼に乾麺とかやくを入れ、ひたひたに濡れるまで水を注いで、蓋を閉めずに600Wで6分。麺が少し固かったからか、激辛が体調に合ってなかったからか、真相はわからないけど、どうやら腹を壊したらしい。
5分に一度、波が訪れる。波が収まるまでは動くことも困難だ。家を出たら8分は歩かなくてはならない。このまま家を出たら駅に着く頃には、きっと取り返しのつかないことになっているだろう。とりあえず、午前中だけ会社を休むことにした。
申し訳ない気持ちでいっぱいのまま男性の上司に報告すると、大丈夫?無理しないでね、と返事が。本当に優しくてありがたいけど、腹痛まで報告してしまったので月経だと思われるのはなんだか忍びないな。一部の界隈で、生理を恥ずかしいことだと思わないムーブメントが起きていて、すごいなと思う。わたしはまだ恥ずかしいと思う側の人間。午前中しか休みを取らなかったのも、きっとその思考の延長線上にあると思う。早く向こう側に行きたい。
そんなことを思っているとまた腹痛が襲ってきて、大きなライトグレーのラグの上に寝転がってうーうー言った。ラグの毛が目に入りそうになって、目で払う。こんなにごわごわしてたっけ。うさぎが心配そうにこちらを見ている。
寄せては返し、寄せては返しの波の中。なぜか全く関係ないことばかり頭に浮かぶ。あれやんなきゃとか、あのこと考えなきゃとか色々思ってたけど、結局ぽつぽつ浮かんでは消えた。11時半には波は弱まり、そういえばラグがなんとかって考えてたよなと思い出し、手を伸ばしてスマホを取った。『ラグ洗い方』で検索する。浴槽での踏み洗いが有効らしい。
冷静に見渡すと、この部屋は余裕がない。脱ぎ捨てられた服、置く余地のない机。午後の出勤まであと2時間ちょっと。こういう時間って、こういうことをやるためにあるのだろう。
脱ぎっぱなしの服を一枚一枚畳み、押入れに入れる。そしてめりめりとラグをめくる。意外と重たくて尻餅をつく。うさぎはなにが起きたのか理解できてなくて、うろたえている。
やっとの思いでラグを持ち上げると、なんだわたしだって休めるじゃないかと思った。「腹痛おさまったらすぐ行きます!』とか言わなくてよかった。これはわたしが勝ち取った午前休だ。今日わたしはやっと休めたのだ。その証拠にこのラグを洗ってやる。そして洗いたてのふかふかのラグに横たわって今日はうさぎと眠るのだ。
やってやったぞと言わんばかりの表情でふと外を見ると、レースカーテンの受ける形がやたら激しくて不安になった。天気を調べてみると、東京ではこれからよくわかんない時間に雨が降るらしい。わたしはラグをそのままその場に置いて、しばらくその上に座ってしまった。うさぎはお気に入りのラグが戻ってきて嬉しかったのか、ぴょんぴょこ走り回っていた。
さっきまで遠くで響いていた体育の時間の声は、もう聴こえなくなってしまった。次にラグを洗う気になるのは、この部屋を引き払う頃かもしれない。心の入る余地のない時間が、あと1時間で始まる。それは永遠に終わらないように思えた。
朽ち果てるその前に
19歳の時、予備校に行く道で顔からコケて、前歯が少し欠けてしまった。すぐさま周りの大人に歯医者に連れて行かれ、欠けた部分を補うように詰め物を施し、元どおりの前歯の形に仕立ててもらった。
時は過ぎ22歳の頃、学食でカレーを食べていたら、その前歯の詰め物が取れてしまった。歯医者へ行くと、詰め物の隙間から食べかすが入り、虫歯ができてしまっているとのことだった。大人虫歯によくある事例らしい。詰め物の色は変色しなんとなく違和感があったので、取り替えるのはちょうどいいと思った。4年前に割れた場所を少しだけ削り、少しだけ大きな詰め物に付け替えてもらった。
さらに時は過ぎ25歳の頃、大学院でポテチを食べながら作業していたら、前歯の詰め物が取れてしまった。歯医者へ行くと、詰め物の隙間にまた少しの虫歯ができているとのことだった。紅茶にハマってステインで元の歯が少し茶色くなったせいか、詰め物との境目も目立って来ていたので、ちょうどいいと思い、6年前に割れた箇所をまたさらに少しだけ削り、さらに大きな詰め物に付け替えてもらった。
そしてさらに時は過ぎ27歳、会社で夜ご飯を食べていたら、前歯の詰め物が取れてしまった。20時を回っても営業している歯医者をなんとか見つけ出し、すぐさま駆け込んだ。案の定、詰め物の隙間には少しの虫歯ができているとのことだった。紅茶はもう飽きたし詰め物も変色してまるで毎日歯に何かが挟まっている人みたいでとても違和感があったのでちょうどいいと思い、8年前に割れた箇所をもう少しだけ削り、さらに大きな詰め物に変えてもらった。
「詰め物が大きくなって欠けやすくなってますから、固いものはあまり食べないようにしてください。欠けたらまた取り替えますけど、もしあまりに欠けるようでしたら被せる方法も考えますので、その時は言ってください」
前歯のこれからについて言及されたのは、これが始まりだった。
身体に精神が追いつかなくて、自分は歳を取らないと信じている節がある。半年前、アラサー用のパックを初めて試してみた時、あまりのフィット感を信じたくなかった。健康な皮脂も、歯も、髪も爪も、いつまでもあるものだと思っていた。
もうわたしの体は成長しない。あとは朽ちていくのを待つだけだ。
その朽ちて行く身体をなんとか維持するため入れ替わり立ち替わり人工物を継ぎ足しているけれど、その度に自分の細胞の面積を擦り減らしている。そのせいで1つの細胞の集積所が、立ち退いてしまいそうになっている。
こんなこと意味があるのだろうか。でも維持しなければならない。まるで綺麗な時間だけが自分の前を常に通り過ぎているように見せていたいから。
19歳の過ちはもう戻ってこない。今のまま止まってもくれない。時間は進むのみ。3回目25歳の時までは買えなかった電動歯ブラシとちょっといい歯磨き粉で、これから自分の前を過ぎ行く時間を、永遠に綺麗に見せることはできるだろうか。
糸をかき分けて
実家を出たと同時に、必要のない縁は全て切れたと思っている。それと入れ替えにいい縁も舞い込んで、わたしの周りはだいぶ整理整頓された。
実家にいた頃は逆で、縁で溢れてた。大事な縁も、そうじゃない縁も。家族とは反りが合わない、担任は会えば進路相談の話をしてくる、クラスメイトは一度ハブられてから本当の友達だと思えない、まだ10代なのに求婚してくる彼氏には困ってる。身の回りの人間関係がまるで整理整頓されてなくて、ぐちゃぐちゃになった糸みたいに絡まっていた。とにかく自由になれる場所を常に探していた。ぐちゃぐちゃをすべて切るほどの勇気はなかったから、かき分けるだけで見渡せる世界を。
17:30、新宿駅東口の改札を降りる。18時コマ劇前の待ち合わせにはまだ早すぎるので、地下改札前のランキンランクイーンでも見ながら時間を潰そうとしていた。
『もう着いちゃって暇ー。誰か着いてる?』
チャットのスレッドに高速で打ち込む。ガラケーのブラインドタッチは得意分野だった。今日の参加者を確認しようと、書き込まれた参加者リストを探そうと連続で▼ボタンを押していた時、後ろからとんとんと肩を叩かれた。
「イルカちゃん?」
「ぴーすけ!今日来るんだね、知らなかったー。」
『ぴーすけ』は、県外の大学に通う大学生。留年か休学かよくわかんないけど、とりあえず大学で問題を抱えてるらしい。背丈がわたしと同じくらいで、モッズコートを着て無精髭を生やしている。
「俺は大体毎回参加だよ。イルカちゃんも毎回参加でしょ。コマ劇前にいけばもう誰かしらいると思うから、行こう」
「うん!」
夜が始まる前のコマ劇前はいくつかのグループが円を作っていて、ぴーちゃんは一番真ん中の円に飛び込んで行った。
「お前らもう集まってんじゃん。イルカも捕まえたから拾ってきたわ。」
サークルを作る10人程の顔をざっと見ると、見慣れた顔を見つけた。
「あっ、みるちゃーん!」
『みるちゃん』はわたしのことを一番可愛がってくれるお姉さんだった。ピンクのイヤリング、ピンクのカチューシャ、ピンクの爪といったようにピンクのアイテムをよく身につけている、かわいらしい女性だった。
「イルカたん久しぶりだねえ。元気だった?」
「うん!みるちゃんに会えてうれしー!」
わたしとみるちゃんがハイタッチしながらぴょんぴょん跳ねるのを、ぴーすけは笑いながら見ていた。
サークルはぞろぞろと近くのカラオケ店に向かう。わたしたちはこうしてチャット上でカラオケの約束を取り付け、歌うだけ歌って解散するという会を頻繁に行なっていた。
「俺ACだよ。イルカちゃん、ほんとにJKだったwww」
「あ、あなたがAC?はじめまして!」
チャット上で何度も絡んだ人と初めて会うこともあった。でも書き込まれた文字に置き換えるとそんなに違和感がない。わたしたちは初対面でももう何度も会話してるみたいに、自然に話すことができた。
大部屋に移され、すぐさまドリンクバーへ向かう。まだ寒いのでホットココアを小さなマグカップに入れる。おしゃべりに夢中で、大抵飲む頃には冷めてしまっているのだが。
部屋に戻るとすでにカラオケは始まっていた。男性の比率が高いためか、部屋はうっすら蒸気を帯びている。当時流行っていたエロゲーの主題歌を男の声で歌う盛り上げ役の『じゅんた』。それを見て「テラワロスwww」と少し大きな声で言う『そさりー』。ワロスって口に出すとそう発音するんだ、と思って、わたしもそさりーの真似をして「ワロスwww」と言った。
大音量の音楽が流れる空間で、大した会話はできない。学校の話も身の回りの話も、天気の話みたいな其の場凌ぎの話は全て歌声の濁流に流される。だからいつも大声でわざわざ話すことといえば、チャットでしていた他愛もない話の延長線上。それも、実際に会ってしゃべると格別に楽しい。誰かが煙草を吸っている。あの箇条書きに並べられたハンドルネームの誰が煙草を吸うのだろう。煙臭くなる制服のスカートを少しだけ気にしながら、リアルとバーチャルの狭間で、わたしはお腹が痛くなるくらい笑っていた。
8時が近づいて来た。この楽しい会を、わたしはもう出なければならない。こういう時、門限と言うのがはずかしくて、「明日も朝早いから」と言って帰る。
毎回みるちゃんも同じ言い訳で帰るのがうれしかった。今日はなぜかぴーすけも付いてきたので、3人で一緒に帰ることにした。
明日から、いやあと何十分後かから、現実が再開する。本当はみんなとまだカラオケしてたい。でもこんがらがった糸がこちらに引き戻そうとする。2人もほんとはまだカラオケしたいと思ってるのかな?わたしみたいに門限があるならわかるけど、大人が早く出てきた理由がわからなくて、なんとなく
「そういえば、みるちゃんって普段なにしてるの?」
と聞いてみた。みるちゃんにプライベートなことを聞いたのはこれが初めてだった。
「みるは何もしてないよ。」
返ってきた言葉がよく理解できなくて、ふーん、と返した。
「みるには色々あるんだよ。」
ぴーすけが何かしら含みのある言い方をする。急に色々と聞いてみたい気持ちになった。当たり前だけど、みるちゃんにもぴーすけにも生活があることを思い出したのだ。でもすでにまずいことを聞いてしまったかもしれないと思って、みるちゃんにごめん、と言った。
「謝らないで。ぴーちゃん、そういう話はいいから。」
「そうか。俺もいろいろあるしな。今日楽しかったな!」
「ぴーちゃんの話は聞いてないよwうん!またカラオケしようね。」
「またいこーねー!」
花びらを伴った追い風が吹く。まだ始まったばかりの歌舞伎町の夜を尻目に、わたしとみるちゃんとぴーすけは駅に吸い込まれて行った。