達筆な男

もう何年も会ってないのに、ふと、「今何してるんだろう」と思い出す人が何人かいる。

彼もそのうちの1人だった。


リンは、当時周りにいた男性達とは若干違う立ち位置にいた。当時の交友関係といえば、半年も経てばほとんどが入れ替わりになるようなものすごい変化っぷりだったけど、リンとの関係はなぜかしばらく続いた。

リンはつかみどころのない男だった。ガラケーのキャリアのメールアドレスで連絡を取るのが当たり前だった2000年代初頭、アドレスを教えてくれないのでずっと捨てアドと呼ばれていたフリーのメールアドレスで連絡を取っていた。会う部屋も、6畳一間の日もあれば、シェアハウスのような場所の時もあった。そして何度も会っていたのに、彼はわたしにずっと「リン」と名乗っていた。

本当の名前を教えてと何度もお願いしたけれど、たまに高田延彦と答えるくらいで、結局教えてくれなかった。なぜ頑なに名前を教えないのか、わたしがもう少し大人だったら薄々感づいていたのかもしれない。あの時はまだ子供すぎて、よくわからなくて、リン、そしてたまにノブと呼んでいた。

どうしても本当の名前を知りたかったわたしは、ある日の夕方、一緒に寝ているベッドをそっと抜け出し、名前の手がかりになるようなものを探すことにした。バンドスコアやCD、ほこりに埋もれた机の上を、一枚一枚、一冊一冊、指先で丁寧に退けていく。あと少しで机が見えると思った瞬間、携帯電話の契約用書類を発見した。一目で男性のものとわかる、無骨な感じが並ぶ名前。トメ・ハネ・払いを完璧に抑えた、力強くて立派な字だった。

正直、とても驚いた。こんなに生命力に溢れた字を今まで見たことがなかったし、それがリンの部屋の一番奥の場所にあったから。でも、彼の名前だと確信した。わたしは、頭の中で何度も復唱した。

 


リンと会わなくなって数年経っても、ごくたまに、ぼんやりするとあのトメやハネを頭の中でなぞることがあった。

その名前で検索してみたこともある。

何があったか知らないが、明らかに私怨と思われるリンの中傷をする書き込みが目立った。リンの出身地、家族に関する記述、そして今の暮らし。本当のことがどのくらい書かれてるのかわからないけど、誰かの憎しみのおかげで、わたしはリンの近況と、どうしてリンがリンの全てを教えてくれなかったのかを知った。

それからずっと、リンのことなど頭の中から消え去っていた。

 


今日の夕方は、久しぶりに長い打ち合わせだった。

目の前の席には、初めて会う取引先の人がいた。目が合い、会釈をした。打ち合わせが終わり「ご挨拶が遅れましたが」と差し出された名刺には、あの名前と同じ苗字が書かれていた。

あっ、と思ったと同時に、ベッドから抜け出してようやく見つけたあの立派な字のことを、まるで昨日のことのように思い出した。

久しぶりにリンの名前で検索してみた。


その名前の下には「容疑者」と付いていた。

特殊詐欺事件に、リンは受け子として関わって逮捕されていた。


一通り固まったあと、わたしは自分の名前を、目の前のノートに書き記してみた。一字一字、やや右に上がっている。ここ3年くらいの癖だ。

書道が大好きだった小学生の頃からは考えられない、中心を避けるように踊る字。そのおかげでバランスが取れてるんだか、結局取れてないんだか。


弱きものを騙した手で、リンは今でも、立派な字で名前を書いているのだろうか。

わたしはもう一度、頭の中であの立派な字の輪郭をなぞった。