仮面舞踏会

午後10時。シャワーを浴びたばかりの火照った顔が、今宵も曇ったガラスに映る。袋から爪の先1枚だけ取り出したシートマスクをそっと宙で開く。そのままおでこ、あご、そのまま頬に伸ばし、鼻を包み込んで顎に貼っていく。シーツをベッドに伸ばすように、手のひらで素早く丁寧に。

この奇妙な儀式が終わるまでの15分間で、とある記事が目に留まった。

内縁の妻の遺体を遺棄した容疑で男が逮捕された。容疑者は30年間妻の身元を知らず、結局妻が誰なのかわからないまま妻が死んでしまい、そのまま遺体を自宅に放置してしまったのだという。この事件は他にも色々あるらしいのだけれど、死体遺棄の事実よりも30年間誰かわからない人と夫婦で過ごしたという話の方が話題になっていた。

 

どんなにドライな何時間限りの関係だったとしても、大抵は何の仕事をしてるとか出身地の話とか、自分の身の回りの話をして不穏な距離感を埋めようとするものだ。しかし彼だけは違った。出身地こそ県レベルで教えてはくれたが、現在の職業も、通っていた学校のことも、家族のことも、自分に関するデータを一切してこなかった。

彼は、正真正銘の身元不明人だった。

ワインレッドのオープンカーで迎えに来られた時は、冗談かと思った。清々しいほど詐欺師っぽいので、マルチ商法を強要されることを覚悟した。わたしが助手席に座ったのを合図に、車高の低い東京が脇を駆け抜けた。

彼は目を泳がせることがない、真っ直ぐに話す人だった。稼げるビジネスの話や副業のススメは出てこない。代わりに溢れてきたのは、永遠に続く話だった。わたしたちは不思議と関心ごとや考え方が、まるで凹と凸のパズルみたいにぴたりと当ったのだ。

話をすればするほど彼のことをもっと知りたくなってしまって、何度も昔の話を聞き出そうとした。しかし彼は絶対に話そうとしなかった。3ヶ月経っても半年経っても変わらなかった。そんなに言うならと、わたしは折れることにした。

 

彼が過去の話をしないということは、わたしも過去の話をしなくていいということだった。だからといって嘘をついていたわけではないけれど。だってわざわざ自分はこんな人間だったという話をしなくたってわたしたちは十分分かり合えていた。だから情報は必要ない。欲しいのは、今頭を巡らせるトピック。

とか今だったら思える気がする。でも当時はもう少しだけ若かったから、そうやって不安な思いをねじ伏せていた。

 

少し言い合いになったことがあった。自分のことを何も教えてくれないイラつきも募っていたので「しばらく連絡してこないで」と言ってみた。本当に軽いノリで送って、送ったあと空中で親指を震わせながら「あーほんとに送っちゃった」と、してやったでも後悔でもない不思議なもやもやに包まれていた。1時間、1日、1週間経ったが、連絡は本当にこなかった。そのうち来ればいいと思って気長に待っていて、1ヶ月後に久しぶりにLINEの連絡先一覧を開いたけれど、そこにもう彼の名はなかった。

慌てて残された手がかりを元に彼を探すことにした。彼と出会って初めて彼の過去について調べた。教えられていた本名で検索しても、よくある名前すぎて手がかりが一切出てこない。大学の専攻だった研究の話をしていたっけ。それらしい研究室をたくさん調べてみても、海中で指輪を探すような不毛な作業でしかなかった。

彼は突然、わたしの前から完全にいなくなってしまった。

 

あの人はいったい誰だったのだろう?見つけられなかったショックはちょろちょろ尾を引いていて、今でもワインレッドのオープンカーが通ると運転席を目で追ってしまう。同時に、いつもより低く広かった夜の東京や、ホテルのチェックインの時目に焼き付けたサインが、今でも高解像度で頭の裏に映し出されるのだ。

そして、わたしは誰だったのだろうとも思う。

常に仮面をいくつか持っている。きらびやかだけれど素顔が一切見えない仮面。自分の歴史を書き記した文字で埋め尽くされた仮面。わたしたちがつけていた仮面は、まっさらで何の装飾もない、でも粘土のように柔らかい仮面。被った状態で近づきあい、手探りでお互いの仮面に触れ、真下に潜む素顔の形をていねいに象った。

 

死体遺棄はともかく、気づいたら30年経っていたとかなら、あの2人のこともなんとなくわかる気がする。お互い仮面をつけていても、常にその下の素顔の熱を感じることができたから、仮面を外すことよりも、美しく映る姿で踊り続けることを選んだのだろうか。

 

当時は結構辛かったけど、仮面も悪くないなと今では思う。だって今まで話をした人間の中で一番気の合う人間だった。だから、お互いが丁寧につくった2つの仮面の魂は永遠でありますように。と考えていたら時が来たので、顔に張り付いていたシートマスクを外した。シートマスクはゴミの日までゴミ箱のふちに張り付いていた。