ティッシュの眼差し

鈍い赤青緑のつぶつぶが、ぽつり、またぽつり、と光り始めるのと同時に現れた居酒屋と風俗のキャッチから逃れるように進む。下を向きながら歩くと、様々な発見がある。横断歩道は剥げてくるとごましおみたいに見えること。ネズミが昔より増えたこと。吐瀉物は乾くと黄色っぽくなるということ。

大通り沿いに少し歩いて信号を右に曲がったところにあるお弁当屋さんの隣にあるビル。エレベーターで鉢合わせる女の子と目を合わせないことは暗黙の了解だ。受付で借りた茶髪ロングのウィッグをかぶり、クロークに置いてあるふりふりのブラウスに着替え、ボリュームタイプのマスカラをまつげ一本一本に重ねてゆく。

テレビにあらかじめ設置されたUSBカメラを少し移動させて、画角の中に絶対に目を入れないようにすることに注力する。

『では本日もよろしくお願いします。』完結なやり取りをして、わたしは今夜も勤務をスタートさせた。


この場所の客の出入りは途切れることがない。朝方にサクッと稼ぐために入ったこともあったが、出勤前の時間帯だというのに大勢の住人で賑わっていた。今日も待機時間を迎えることもなくスムーズに会話を始める。

『こんにちはー^^』

わたしが出勤していたライブチャットは、基本的に客の声は聞こえない。客が打ち込んだ文章に、女の子が声で返答していく仕組みだ。

「こんにちはー、はじめまして。」

甘い声で返答する。この時点で『おっぱいみして』と言ってくる輩にはひとまず断るのだが、この人はそうではなかった。

『じゃあまず、唇を見たいな。』

唇が見たいなんて純情な人だ。そういえばわたしも人の唇をまじまじと見たことがない気がする。目が間違って画角内に入り込まないように、そのままカメラに近づき唇を向けた。

『ありがとう。なんだかムラムラしてきちゃった。パンツ見してくれるかな?』

シワが目立って来た紺のスカートから白い三角地帯をちらりと見せると、同時にレスが入る。『そのまま触ってみてくれないかな?』

最初はゆっくりおそるおそる手をのばし、盛り上がってきたところで手を早める。不用意に性器をこすらない。決まり手を淡々とこなし、そろそろかなと思ったところで、試しに1回イったふりをしてみることにした。

『もっと欲しいんでしょ?』

息を適当に荒げていると、すぐにレスが来た。なにももらってないんだけどね。でも時間ごとの報酬だから、会話は続けられるだけ続けられるととてもありがたい。今夜、1万は硬いかもな~、と、また無心でパンツをこするふりを続け、いいタイミングで再びイったことにしてみた。

すかさず返答が来る。

『もっと欲しいんでしょ?』

え・・・まだやんの・・・とりあえず息も絶え絶えに「うん」と答える。

『こんなにイっちゃったの、初めてでしょ?』

この人は今までどんな女の子とセックスをしてきたのだろう。その子たちは何度もイく子だったのだろうか。わたしはというと、どんなに盛り上がっているセックスをしても、1回イくので体力的に精一杯。その真実は置いておいて、淡々と仕事をこなす。発信されるたどたどしい言葉攻めと、たまにするのを忘れてしまうわたしの荒げた息。視線の交わらないやりとりは、淡々と時が流れて行く。

『もっと欲しいんでしょ?』

この時、すでに12回イったことになっていた。本当に12回もイっていたとしたら、痙攣しすぎて死んでいると思う。12回もイったことないからわからないけど。さすがにもう限界だった。潤滑油の一切ない状態でパンツをこする手も指も性器も痛い。っていうか、このままだとばい菌が大事なところに入ってしまう恐れがある。

「そろそろお水が飲みたいな」

ウィッグの下は蒸れてかゆいし、合皮のソファーにはお尻の形をした汗が溜まっていた。目にうつる景色は歪んで見えて、小さな虫がたくさん飛んでいた。

気分が悪いのでこの人とのチャットを停止したい旨をスタッフに伝えると、会話は即座に終わった。わたしはしばらくソファーから頭を落とし、じっとほとぼりが冷めるのを待った。


「君の代わりなんていくらでもいるんだよ」この前生まれてはじめて面と向かって言われるまで意識の彼方に放られていた記憶。チャットレディはすぐやめてしまったけれど、あのおじさんは、画角に入らなかったわたしの目について想像することもなく、次に目の前で12回イったフリをしてくれる女の子をすぐ見つけることができただろう。エレベーターの中でとうとう見ることのなかった女の子たちは、ティッシュペーパーと一緒に消費されていった。言われるだけマシな、でも仕組みはなにも変わらない世界に旅立ったわたしの代わりに。


横断歩道のまだら模様は、人が踏んだ場所から今日もすり減り続ける。カラスが吐瀉物の周りに集まってきて日が昇る気配がした。アイロンするのもめんどくさいので、紺色のスカートはもう捨てることにした。剥き出しになってしまった精神をふらふらの体で包みながら駅の方向へ向かった。