ほぐせぬまま

高校生の時も、なにかと気を使う場面が多かったと思う。友達付き合い、彼氏の前、親や先生の前。あとあの頃はコンビニでのアルバイトも始めたおかげで、大人と接する機会が多くなった。突然の大人扱いは少し嬉しくもあり、疲れるものでもあった。

だから近所に整体院ができた時、わたしは喜んだ。学校で、バイト先でナメられまいと伸ばしていた背筋をほぐしてくれる場所があるのはありがたかった。週3回のシフトで稼いだいくらかのお金を使って、月2回ほど通うのが楽しみだった。

 

 

通い始めたある日当たった一人の先生。名前をS先生とする。ひょろっと長身で少し頭のてっぺんが薄い、40代くらいの真面目そうな男性。「よろしくお願いします」と口にしたその落ち着いた声と表情は、噂通りの優しい空気で溢れていた。

 

家族ぐるみでよく行っていたので、食卓でS先生の話が出ることが何度かあった。母がよく担当になる先生で、とても優しくて施術もうまいと評判だった。前回の先生の施術があまり上手とはいえなかったので、その時はうまい先生についてよかったなとしか思わなかった。

 

マッサージ用ベッドにふとももが触れると、しっとりと冷たく感じた。教室はクーラーもついてなくて暑いから、気持ちいなあ。うつ伏せに寝かされ、30分間の施術が始まる。それまで優しい表情を浮かべていたとは思えない強い腕っぷしで、わたしの背筋の凝り固まった所を狙ってほぐしていく。はあー、と思わず何度か深い息をした。

 

仰向けになると、S先生がわたしの脚を折り曲げて体重をかけてくる。ふと、S先生と目が合った。施術している時のS先生の顔を見るのはこの時が初めてだった。目が笑っていない。というかそもそも最初から、口調やまとっているオーラが優しすぎて何を考えているのかわからない。

その衝動は突然襲ってきた。こんなに無機質に、淡々とわたしの体の凝っている部分をほぐしている。わたしだって女子高生だし、バイト先ではちょっとチヤホヤされているし、男だって知っているんだよ。「どうせそういう気持ちになっているんでしょ?」と、この大人をちょっとからかってみたいという衝動が、どうしても頭を支配して離れなくなってしまった。

下唇を甘噛みし、眉間にしわを寄せてみる。時々歯から唇を離して、また甘く噛む。セックスをしている時、自分はきっとこんな風に顔を歪ませているんだろうなと想像しながら、でもあくまでも軽いニュアンスで。漫画喫茶やカラオケでする時、声を出さずに相手に「気持ちいい」と表情で伝えるように。S先生が上になっているこの状況で、表情を作り出すのはイメージしやすかった。軽くつむった目でちらっとS先生を見てみる。S先生は、やはり笑っていなかった。

 

施術が終わっても、わたしは呑気だった。むしろ「してやった」ぐらいの気持ちでどこか満足げだった。S先生はさっきと変わらない優しい表情に戻っていた。会計を済ませ、整体院をあとにした。

家に帰る途中で汗を拭くためのハンカチを忘れてしまったことを思い出した。家路とは少し違う場所にあったので、引き返すのも面倒だ。どこかのタイミングで取りに行かなくちゃなと思って、そのまま一週間が経った。

 

期末試験を終えていつもより早く学校から家に帰ると、母親が血相を変えてわたしのところに飛んできて、一通の手紙を渡してきた。

「とにかくこれを読んで」

わたし宛のその手紙の封を開けると、文字が敷き詰められた便箋が現れた。読んでいるうちに、自分の背筋が凍っていくのがわかった。

「こんにちは。Sです。整体院にハンカチを忘れていきましたよ、っていうご報告のお手紙を書いちゃいました。そういえば暑くなってきましたね。もうすぐ夏休みとおっしゃっていましたね。どこか遊びに行きましたか?わたしはどこにも遊びに行っていないんです。(他愛もない話が続く)ハンカチは僕が個人的に預かっているので、もし取りにこれるのならば、また整体院にきてください。それか僕に連絡をくれればいつでも届けに行きますよ。だからいつでも連絡ください。待ってます」

 

わたしを恐怖のどん底に陥れたのは、うちのポストに消印がついていない状態で届いたということだった。保管されているデータから辿ったのだろうか。これから起こるかもしれない最悪の事態が頭をよぎって、こめかみから汗がだらだらと流れる。同時に、自分がしてしまったことの重大さについても、ずっと考えていた。

 

母親は「S先生はストーカーだ。どうしよう。」とパニックになっていた。いやお母さん、この件はわたしも悪い。わたしがちょっとふざけてエッチな顔をしたから、先生きっと勘違いしちゃったんだ。でもこんなつもりじゃなかった。わたしがちょっとからかっちゃったんだよー。そんなことを母親に言えるはずもなく、わたしはただ黙って、靴下を脱いだばかりの足の裏から感じるフローリングの冷たさを感じることしかできなかった。

なにが一番怖かったって、目尻を下げた目の奥が一切笑っていなかったように、まみれた欲望の裏に燃えたぎる怒りがびっしりと敷きつめられているような気がしたからだった。わたしは少し寝込んでしまった。

 

ハンカチは母親が取りに行った。それ以降、わたしたち家族はその整体へ行かなくなった。

 

あの手紙以降怖い目にあうことはなかったけど、もう大人の、特に男性をからかっていい年齢ではないんだ、とあの時初めて思った。そしてそれは、一部ではあるが男性という屈することのできない未知の存在を容認しながら生きて行くという、潜在的な薄い不安みたいなものが生まれた瞬間でもあった。

この前久しぶりに実家付近に立ち寄った時、あの場所はもう整体院ではなく別の店になっていた。ナメられまいと伸ばした背筋は、10年経った今もそれほどほぐれていない。