西片例の、

スプーン一杯のノンフィクション

証人

以下の記事の続編です。前半に書いてある話の詳しいことは、この記事に書いてあります。 

 

leinishikata.hatenablog.com

 

 

 

風が当たりすぎるあのカフェは汗を一瞬で奪って行ったはずなのに、再び噴き出した汗がTシャツに染みを作っていたのを見て、この世界で実体として存在していることをあらためて再確認した。生きている限りそんなことは当たり前なんだけれど、わたしにとってこの確認作業は避けては通れない作業なのだ。今足を踏みしめるこの浮世から別の世界に移動することなんて、現代ではとても簡単にできてしまうから。

 

13歳の時、はじめて親からもらったケータイからアクセスしたその世界で、わたしはマイと名乗って存在していて、そこでハルという男性に出会った。ハルとは不思議な、でもとても良好な関係を築いていたが、色々あって連絡を取らなくなってしまった。初めて出会ってから14年、最後に会わなくなって約10年が経ち、わたしはこの小さなカフェでハルと再会した。それが1時間前のこと。

この一見とてもドラマチックに見える再会は、盛り上がりに欠けるものとなってしまった。わたしはてっきり、今でもマイと呼ばれても何も違和感のない状態でハルと会ったが、ハル自身がもうハルではなかった気がした。目の前でコーヒーをすする男性は、管理職サラリーマンで、一人娘を持つ父親で、アスファルトをしっかり踏みしめる一人の男性だった。ハルの面影は幻想に過ぎなかった気がして、少しだけ肩を落として坂道を降りた。5月の暑い日だった。

 

マイとハルは偶然にも住んでいる場所が近いことがわかった。飲みに行くのは自然な流れだった。もっと暑くなったこの日、夜の街に繰り出した。

14年という長い月日を埋めるのには、カフェの1時間ではあまりに短かすぎた。だからといって今更何を話せばいいのかわからなかった。この前の1時間で、マイとしてはすべて話し終えたつもりだった。少し高い椅子。4人掛けの木のテーブル。座高のバラバラなふたりは、視線がぴったり合わないまま、お互いの現在の生活について話していた。この前カフェでした話にちょっとだけ肉付けした程度の、誰にでも話す他愛ない話。

 

「マイのその話し方、変わらないな。」

突然ハルがつぶやいた。

「わたしも思ってたよ。ハルの話し方変わってないなって。何話したかまでは忘れちゃったけどね。」

「おれはマイと会って何をしたかまで、全部覚えてるけどな。」

シャンディガフのグラスは、いつしか机に丸くかたどられた水の足跡をつけていた。

「初めて会った日、おれたちは一緒に漫画喫茶に行ったんだぜ。覚えてるか?そこでな、学校の宿題を見せてもらったんだよ。それからお前の家の近くまで送って行ったこともあったなあ。ほら、あの難しい名前の場所だろ。あたしの家ここ曲がってすぐだから、って言ったから、おう、って言って、別れたんだぜ。」

ハルの口から次々と出てくる話を、マイはなに一つ覚えていなかった。

 

気づいたらせきを切ったように、マイはハルに思いの丈を伝えていた。メールしていた頃は楽しかったのに、会った瞬間からなにかが変わったような気がしたこと。ハルは東京に来て変わってしまったかもしれないと思ったこと。そして、この前会った時も、もうハルとマイじゃないのかもしれないのが怖かったこと。ハルは優しい表情を浮かべながら黙って聞いてみた。

 

「わたしに手を出してこなかったのって、なんでだったの?」

一番気になっていた話をハルにしてみた。ハルは何杯目かのハイボールを喉の奥に流し込んでから言った。

「マイは若すぎたんだよ。」

男女の仲を最初から約束するための場所で、年齢とか、住んでいる場所とか、境遇で、マイとハルは男女にならなくて、その事実がマイという女の子をこんなに未来まで延命していた。そして、マイが確かに存在していたことを一番よく知っているのが、マイ自身ではなくてハルだった。それにマイはやっと気づいた。

 

「なんだ、マイ、背がのびたな。スタスタと前を見据えてよく歩くじゃないか。」

たくさんの車の駆け抜ける大きな音の中でも、その声はよく通って聞こえた。

「これからもそのまま前だけ見てまっすぐ歩いていけよ。」

変わらないハルがそこにいた。わたしは?わからない。でもハルが覚えている限り、わたしはきっと今日もマイでいられる。これまで互いの体に一度も触れ合ったことがないけれど、10年前の渋谷の、漫画喫茶の、メールの、そしてメル友募集掲示板での記憶を忘れない限り、これからもこの世界で、お互いの存在を信じることができる。

分かれ道、わたしは少し狭い北方向の道を、ハルは大きな通り沿いに東へ歩いて行った。わたしは少し行ってから立ち止まって、再び分岐点へ戻ると、ハルはまだ東への道のりを歩いていた。いつでも会える距離だ。こうしてマイの記憶をまた引き出すことができる。久しぶり、マイ。わたしはマイにやっとその言葉を言えた気がした。街灯の下。リネンシャツは生ぬるいをはらんで、脇の下を膨らませる。その下に着たキャミソールの汗はとっくに乾いていたけれど、何も思わなかった。小さくなってゆくハルの背中を、わたしはいつまでも見ていた。