0.03mm

今や0.01mmが登場しているのだから、すごい時代である。でもやはり自分としては0.03mmくらい厚さがある方が安心できる。コンビニに行けば必ず置いてあるし、いざという時でも大丈夫。欲しい時にすぐ買える。

 

 

喉がからからで目が覚めた。狭いシンクに向かってよろめきながら歩く。全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出して、体がしっとり濡れているのがわかった。頭がぼうっとして、視界には白っぽい塵みたいなのが無数に飛んでいる。薄汚れたコップにぬるい水を入れて、一気に飲み干す。生ぬるい川がお腹の方までゆっくりと到達する。二杯、三杯、それからもう一杯。飲んでも飲んでも、満たされた気持ちにならない。なんというか、体が潤っている感じがしない。ただ体の奥に水を押し込んでいるだけなので、尿意だけが生まれる。

小さな、でも誰も触れようとしない湖に、ぽたぽたと、川の終着点がしたたり落ちる。この穴は出るばかりで、何も入っていない。ここが今確実に満たされていない。早急に、この穴に棒状のものを入れたいと思った。

 

 

自慰の習慣が無い。というかできない。それなりに経験はある方だけど、自分で異物を入れるのは怖くてたまらないのだ。

二年ぶりに連絡を取ったその相手は、かつてすごく憧れていた先輩だった。最初にセックスできたときは言葉にできない感動と達成感を覚えた。しかし一度コンドームが破れてしまい、アフターピルの金を一銭も出してくれなかったことで、一気に冷めてしまってそれっきりだ。

『久しぶりだね。昨日ならよかったのに』いやいや昨日がなんなんだよ、今日の話なんだわ。訳がわからない。こうなる予感はしていた。

 

 

交差する人。詰め込まれる電車の中。東京にはこんなに人がいるのに、この穴を埋めてくれる人がいないのはなんて悲しいんだろうと生まれて初めて思った。長期間求められたいなんて、そんな大それたことは言わない。むしろ短時間がいい。3時間とか。あと合法がいい。いきなり襲われるとか嫌だ。破ける心配の少ない0.03mmの信頼関係だけは確実に築いて、あとは入れてくれるだけでいい。最近3ヶ月以内、幾度かのセックスチャンスはあったはずなのだけれど、どんどん手放してしまってもう持ち駒は無い。かといって職場の人は絶対に絶対に無いし、昔の友人に「久しぶり!今日セックスできない?」など言える訳がない。ていうかこれに関しては失敗談があって、友人に手を出してしまったばかりに、もうその彼と話す気も起きなくなってしまったのだ。ああいった悲しい事件は風化させまい。次に繋げるのだ。つまり何が言いたいかというと、今築いている関係から体を重ねるまでの関係に変化させるのは、ドキドキして楽しいけど、その後のことを考えるとちょっとハードルが高すぎる。でもこの穴を満たしたい。満たしたいのだ。でも。今いる世界じゃ、この欲望はどうしても成し遂げられなかった。

もう仕方ない。わたしはわたしの中に、また一人わたしを作ることにした。

 

 

昔からスミレという名前の女の子に憧れていた。儚げで、細くて肌が白そう。あとこのクソ暑い時期、薄いベージュの麦わら帽子と白いワンピースを着て小さいお花をカゴいっぱいに入れてそうな、スミレちゃん。わたしはそんな可憐なスミレちゃんを、Tinderでも掲示板でもなく、Twitterに生息させることにした。

今までインターネットで数々の人間と出会って来たけれど、Twitterで出会うのは初めてだった。見よう見まねでスミレちゃんに吐き出させる。

『今日会える人いませんか?#裏垢』

ハッシュタグに手繰り寄せられ、スミレの通知は男性の欲望で埋めつくされた。この時は正直もう誰でもよかったので、すぐさまDMを解放した。

真っ先に反応してくれたのは、30代の男性だった。彼もスミレと同じような目的でTwitterをやっているという男性だった。もうこの人にしちゃおうかなと思ったところで、いきなり男性は卑屈な言葉を並べ始めた。『体型のことが気になるから、もし嫌だったら会わないほうがいい』『アソコも小さいから俺だとよくないかもよ』いちいちうるさい。しまいには聞いてもいないのに『俺は嫌われ者なんだ』と突然言い出す始末。誰でもいいと豪語してきたが、ヨシヨシしてほしいなら他を当たってほしい。スミレは丁重にお断りした。

二人目は大学生だった。自分が学生じゃなくなった途端、学生にはもっといっぱい女の子と出会えるチャンスあるでしょと思ってしまうのはなぜだろう。しかし彼はあろうことか、スミレに自分の地元の駅まで来いと言い出した。嫌だというと、『俺金ないんだよね』とのことだ。OLは俺より金を稼いでいるだろうからと思っているのか知らないが、随分舐めた態度で突っかかって来た。そもそもスミレは出張に対応していない。移動時間は極限まで削らないと、0.03mmの信頼関係は成り立たない。スミレは再び、丁重にお断りした。

正直、楽勝だと思っていた。でも体の一部の写真も公開していない、アイコンはグレーの人物マークのままで、色々わきまえている人は少ないのかもしれないなと思った。いくら薄い関係を希望するからって、流石に適当すぎたかなと思ったところで、別人物から反応があった。

3時間ぐらいがいいんですけどと伝えると、僕もそれくらいでいいですとのことだった。場所もお互いの希望が一致し、時間帯もちょうどいい。30代男性、見た目普通。与えられた情報はこれだけだったけれど、この人でいいかと思えた。

初めてTwitterで出会ってしまった。いやネットで今まで散々出会って来てるのに今更こんなに緊張してるなんて意味がわからないんだけど。でもこれはいわゆるオフパコ・・・。顔も見せていないのになんでこの人わざわざわたしと会いたがるんだろう。冷やかしだったらどうするつもりなんだよ。もしかしてヤク中?

『キメセクとかはしたくないんですけど・・・。』

『僕、なんかアブノーマルな印象になってるんですかねwオモチャ使うのは好きですけど、キメセクとか、首絞めとかは好きじゃないです』

よかった・・・会って突然言われたらどうしようかと思った。

『はは、なんかスミレさんって出会ったきっかけは変だけど、なんか面白い人ですね。』

いやいや怖いじゃんこのご時世・・・。さんざんアプリ使っといてこのご時世とか何言ってんだって感じだけど。しかしまだ喉は渇く。電車の中は暑すぎるのだ。さっきから駅の自販機で買った水を飲みまくっているのに、一向に喉の渇きは抑えられない。家の小さなシンクから出てくるぬるい水道水とは、温度しか変わらないのに。

やっぱり水だけ体に押し込んでいるだけでは、尿意しか生み出さなかった。その名前も知らない彼との待ち合わせの駅で、慌ててトイレに駆け込んだ。扉を閉めて少し経って、穴から滴る血に、これから始まる一週間を宣告された。

 

 

『そうですか、了解です。じゃあ今日は何もしないということで大丈夫ですか?』

そういうことでお願いします。普通に申し訳ないし、タイミングが悪すぎる。なぜよりによってこれからという時に。わたしは帰路につくことにした。白いワンピースに染みがつく前で、心底良かったと思った。

再び通知があったので見てみると、先ほどの名前も知らない彼からだった。

『もし会えたらお茶でもしませんか?また別の機会もあるかもですし。』

すでに電車はもう発車してしまって、家の方面へ進んでいた。蛍光灯が煌々と光るトンネルを抜けると、窓から見える無数の光は尾をつけて流れていた。もしかしたらわたしたちも、会っていたら3時間だけ、あんなふうに整列された光に並んだかもしれなかった。

トイレから出た瞬間から、スミレの皮などもう溶けて無くなっていた。わたしはもう一度スミレの皮を被ろうかと一瞬思ったけどやめた。0.03mmの関係に、過去も未来も必要ない。欲しいのは、薄いけど確実な現在。それくらいがちょうどいい。