西片例の、

スプーン一杯のノンフィクション

まだ見ぬ坂道の果て

久しぶりに歩く道玄坂は、とてつもなく長い道のりに感じた。2018年の夏はもうすぐそこまで来ているようで、待ちきれずに翳りのある坂の隙間から丸く小さい光をゆらゆらとこぼしている。平日だというのに、渋谷という街はどこもかしこも若い人だらけで、人と人の間を縫うように歩くので精一杯だ。この坂を登りきったら、いくらか涼しくなるだろうか。この坂が終わる一番高いところをめがけて、首筋に汗を這わせながら駆け上がった。

 

 

初めてケータイを親から手渡されたのは、中学に上がってひと月経った頃だった。まだ小学校を出たばかりのわたしにとって、あの青い2つ折りのケータイは見たことのない世界を簡単に見せてくれる魔法の機械だった。

あの場所をどうやって知ったかとか、どんな場所だったかとか、正直あまり覚えていない。とにかく暑い日だったのは覚えている。水泳の授業が終わって家に帰り、タオルケットに寝そべりながらふらふらと漂っていたら辿り着いていた。性別・年齢・そして一言コメントが羅列していたその場所で、わたしはマイという名前の女の子となった。

もう一つ覚えていないのが、どうしてマイはその男を選んだのかということ。彼の名はハルと言った。ハルは東京のトピックに投稿していたのにもかかわらず香川県に住んでいた。骨折して入院していて暇で、香川県だと誰も引っかからないし、近いうちに東京へ出てこようと思っている。その投稿を見つけたマイがなんとなくメールした。覚えていることはこれだけ。

 

反抗期真っ只中で、家族と衝突が続く日々。みんな日常の苛立ちに各々で疲れていたのか、友達をシカトして遊ぶゲームが流行った。中1が制服のスカートのウエストを折ることは許されず、言いがかりをつけられて先輩に怒られることもしばしばあった。地味で目立たないことを強いられる生活。勉強は全然好きじゃないし、今は仲良くしてくれるクラスメイトに、明日シカトされるかもしれない。あの小さすぎる世界で毎日生まれては消える闇は、そんな事情を全く知らない誰かと文字だけの会話をすることで、いくらか和らいだ気がした。

学校の中でケータイの電源をつけてはいけないので、マイとハルが会話できる時間帯はもっぱら登下校中と家に帰ってから。ハルは自分の自撮りを送るのが好きだった。誰にも言えない悩み事や他愛もない話も、家に帰って親にするのではなく、ハルにしていた。自撮りの中のハルはいつもマイを優しく見つめていて、声を発さないやりとりはどんな会話よりも暖かかった。親にケータイを折られたり、学校で使っていることがバレて没収されても、マイはこっそり家族兼用のパソコンからハルにメールした。マイの生活にハルは必要不可欠な存在になっていた。「いつ東京に来てくれるの?」マイは優しいハルと本当に会って話がしてみたくて、毎日質問した。「11月までには。」「3月中には。」「仕事が決まったら。」ハルの答えは、いつも遠かった。

 

結局ハルと初めて会ったのは、中学3年生になった頃だった。実はその時のことを、ほとんど覚えていない。

今までずっと、マイは自撮りの中のハルと対話してきた。実際にハルを目の前にしても、ハルはハルではない別の人のように見えた。同時に、マイはマイではないような気にもなってきてしまった。文字だけのやり取りの中ではあんなに話が盛り上がっていたのに、いざ対面すると何を話せばいいのかわからなかった。その後もメールは続いたものの、中学校から怖い先輩はいなくなったし、さらに形だけの彼氏ができ、当時の生活にもうハルは必要不可欠ではなくなっていた。「マイ」はいつしか、体から少しずつ抜けて行った。同時にハルは、物凄いスピードで東京の人になって行った。新しいメールアドレスはハルに教えなかった。ハルとは、それっきり。

 

 

坂の頂上の先には首都高が開けていて、大きな車が飛ばすように走っていた。さっき登り始めた場所を見下ろすと、長いと思っていた坂はそこまで長いと思えなかった。きっと歩いている時には感じなかったけれど、思っていたより急だったからだろう。打ち合わせが長引いてしまい、5分ほど遅れてしまった。息を整えて軽く咳払いをして、ハンドタオルで汗をぬぐって、前髪だけクシで流して、少し歩いてから立ち止まった。

「ハル」

明るい髪の男性が、こちらを振り返った。

 

少し沈黙してから、目尻を落として「大きくなったな!綺麗になったなぁ!」と、優しく話しかけてくれた。口角に少しだけシワを作っていて、最後に会った時よりも少しおじさんになっていた。

Facebookで見つけた時はあまりわからなかったけれど、随分いろんなことがあったらしくて、語ってくれた。今は40歳。職場はすぐ近くで、WEBエンジニアをやっている。つい最近離婚した。前の奥さんのところに5歳の娘がいる。髪の色も体型も変わっていて、分かってはいたけど、彼はもうハルではなかった。かつてハルだった人。そしてわたしは、マイだった人。実際に対面して違和感を感じたあの時、ハルとマイがどんどん過去になってしまうことが悲しくて、自分から距離を置いた。けれど、今はそれでもいいかなと思った。わたしもマイではなくなって久しいし、いつまでもこの人をハルにしておくわけにはいかない。じゃあわたしは今、誰?この人はハルではなくて、今は誰?匿名というのは名乗らないことではなくて、いくつも持っている名前が作り出す存在なのかもしれない。じゃあわたしたちは今、匿名だ。わたしたちには今、名前を持っていないのではないか。ハルだった人の思い出話を受け流しながら、そんなことを考えていた。

 

これからはハルとマイの関係ではなく、社会人としていい関係を築けたらいいな、なんて思っていて、なんとなく名刺を持って来た。道玄坂の雑踏に彼が消えそうになった瞬間、そういえば初めて会った場所も渋谷だったことを思い出した。同時に、やっぱりこの人をハルとも呼べなくなってしまうのは寂しいと思ってしまった。名刺は渡さなかった。姿や形がなくなってしまって、あの頃のことをもう誰も覚えていないとしても、やっぱりわたしはこの人のことをハルとしか呼べないし、彼もまたわたしのことをマイとしか呼べない。14年前の夏から、多分これからもずっと。

 

 

 

 

 

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最近はこっちに毎日短い文を書いている

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