西片例の、

スプーン一杯のノンフィクション

そこに線がほしいか

もし本当に人間が平等ならば、この世界に引かれる線など存在しないだろう。
でも現実では、地球に線はたくさん引かれている。
それは区別か?それとも・・・

 

 

先週の土曜日、クリエイター界隈の大きな新年会と銘打った交流会が開催された。私は去年も参加してとてもいい出会いのきっかけをいただけたので、今年も素敵な出会いに期待して参加した。ただ去年の盛り上がりからか運営メンバーやスポンサーが変わっていて、場所は新宿の一等地、300人参加というものすごく規模の大きな会となっていた。
混雑の中やっとの思いで去年この会で出会った知り合いを発見し、久しぶりの再会を嬉しく思っていた。
大きなクロークルーム、ボタニカルな空間デザイン、おいしいサングリアやシーザーサラダ、そして会話を弾ませるキラキラした人々。その先には壇上があり、3名の方々がトークをしていた。
SNSでこの会の概要を見ていたので、自己アピールタイムなるものが存在することを知っていた。しかしこのトークショーはどうやらそれではなさそうだった。司会の女性が「お三方がお話しているので静かにしてください!」となんとか会場を黙らせようとしている。(もちろんみなお喋りや名刺交換に夢中で静かになるはずがないのだが。)私は遅刻したのでこの事態を読み取ることができなかったので、知り合いに聞いてみた。「あれはなにが行われているんですか?」「あれはなんか、ゲストがトークしてるんだよ。」

 

ゲスト?

 

よく聞いてみると、広告業界ではとても有名な方々だった。そしてスライドを見せながら自身の実績を発表していた。
私はこの構図に、とても強く疑問を感じてしまった。

 

参加者のほとんどは第一線で活躍されているプロのクリエイターのみなさんで、学生など私ぐらいしかいない。だからこそこのようなことを思ってしまったのかもしれないが、デザイナーからライター、イラストレーターのマネージャー、映像制作会社の社長など、実際業種もポジションも様々であったし、誰かが教えて誰かが学ぶとか、特別な誰かの話を聞かなきゃいけないとか、そういう場所ではなかったように思う。自己アピールタイムでは、司会の女性は参加者を黙らせていなかった。クリエイター界隈の交流会と銘打っていたはずなのに、運営はなんの基準で「参加者」「ゲスト」身分に線を引いているのか、なぜ3人だけこういう場で特別扱いをする必要があっただろうか。

 

区別を強いられる場面は実生活で数多く存在する。必要な区別も、いらない区別も。社会ではあっても、線の無い場所を提供することこそが交流会の意義ではないだろうか、と感じてしまった。

 

 

壇上でのプレゼンが終わると「ゲスト」の前には長蛇の列ができていたにもかかわらず、3名とも一人一人にとても丁寧な対応をされていて、絶対疲れてそうなのにすごいなと思ってしまった。あの雑踏の中できちんと話を聞いていた人は、並んでいるうち何人なのかもわからないけれど。

 

宇宙には人間はまだかろうじて線を引くことができていない。しかし月にはもうすでに引かれ始めている。格差や権利の象徴としての線が主流で、これが社会の仕組みなのだろうか。それで経済は回っているなら理想論でしかないかもしれないけれど、ものづくりという太古の昔に人類が手に入れた美しい営みにまでそんな線は及んで欲しくないし、自分はそうでない心持ちでいたいなと思う。