西片例の、

スプーン一杯のノンフィクション

半分の夜

子供の時母から一人用の敷布団が与えられてから、わたしにとって夜とはずっと一人のものだった。

たとえ家ではない場所で同じ布団を誰かと分かち合って、その下で互いの手が触れ合っていたとしても、その夜を誰かと分け合っているという意識は感じたことがない。男の頭を抱えて寝るのが好きだが、朝になると結局その手は離れて、虚無だけをつかんでいる。その事実にもう諦めているところがある。

『明日はうまくいくと思う。』

夜空が見えない窓に向かって話をするように、でも頭の中だけでそう反響させるだけで、本当にその言葉通りになるような気がした。

「明日はうまくいくと思う。」

この広すぎる部屋に引っ越してからは、頭の中だけに反響していたはずの声が無造作に置かれた冷蔵庫の裏やベッドの下に消えて行った。

 

この部屋の第二の住人にうさぎを受け入れようと決めたのは、先月のこと。安くて鳴かなくて世話がしやすいことに惹かれた。

垂れ耳のうさぎ・ロップイヤー目当てでペットショップを周り、相場や大きさなどだいたい把握した。何件目かのペットショップの薄汚れたゲージのガラス越しで、多くの小さな仲間に囲まれて、そいつはじっと目を閉じて時間がすぎるのを待っていた。別のうさぎの半額以下で叩き売りされていた、ネザーランドドワーフ

「このうさぎ、なんでこんなに安いんですか?」

「正直小さい子の方が売れるんですよ。この子は少し大きくなりすぎてしまったので、この値段なんです。」

確かに他のうさぎに比べると明らかに大きい。でも生まれた早さは2ヶ月やそこらの違いだ。それにこのうさぎの毛の模様は妙に色っぽくていい。耳なんて、ベロア生地みたいだ。気づいたら、このうさぎとの生活しか考えられなくなった。

「ほら、今度の火曜日、ママが迎えに来てくれるから、いい子にちて待ってるんでちゅよ~。」

店員があやし始める。抱っこして背中をポンポンする店員の背中越しに抱かれるうさぎの目とわたしの目が合った。

 

数日後、わたしとうさぎはタクシーに揺られながら20分ほどのその道のりを辿っていた。粗末な段ボール箱の中でうさぎは最初暴れまわっていたけど、そのうちぴたっと静かになった。

家に着いて段ボールを開けると、うさぎは端の方でおもらしをしながらガタガタ震えてこちらを見上げていた。

「ごめんごめん、怖かったね。ここは怖いところじゃないよ。」

うさぎを抱えて、ゲージに入るように促した。

 

初日からベタベタ触ったり見すぎてはいけないとのことだったので、少し離れたところで見守りながら話しかけることにした。

「あんなに赤ちゃんことばで話しかけて、あの店員失礼だと思わない?」

移動の疲労でお腹が空いていたのか牧草にむしゃぶりついていたうさぎが、少しだけこちらを見た。そのまま横にバタッと倒れて、足を伸ばした。ショップで聞いていたよりも肝が座っているような気がした。

 

そういえば昨日は眠れなかったんだった。今まで当たり前に一人で過ごして来た夜が二人のものになるかもしれないなんて、考えただけでどきどきした。

「明日はうまく行くと思う。」

今まで冷蔵庫の裏やベッドの下に吸い込まれて行ったその言葉は、大きくて長い耳に届き続けるだろうか。わたしはこれからしばらく、彼女と夜を半分ずつ分け合うことになった。

記念品

休み時間。教室から少し離れた先にあるトイレは、花のような香りとほのかな酸っぱい匂いが立ち込めていた。鏡の前では、無数の女の子たちが所狭しと並んで化粧を直している。ブラウスの肩と肩が少しずつ触れ合うその隙間に、わたしはいつものように体を斜めにして肩をめり込ませた。冴子の肩だった。

冴子は待ってましたと言わんばかりの表情でわたしの顔を見て、ニヤッとした。そして耳元で囁いた。「ねえ、援交してるの?」

一瞬、時が止まった気がした。わたしも小声で返す。

「誰が言ってたの?」

「それは言えないけど、噂では何度か聞いたよ。本当なの?」

耳たぶに熱を帯びた血が集中し始め、そこから顔いちめんに広がる過程がわかる。心臓の音が口から冴子に聞こえないように、唇をきゅっと噛みしめる。考えれば考えるほどわからない。どうして、どうして。

 

いつも携帯からアクセスする出会い系サイトは決まって3つ。18歳未満でも登録無しで連絡先交換ができるようにするために、3つはどれも「メル友募集」を謳って開設した掲示板のような作りになっている。18歳未満の出入りの理由は、わたしのようなマセガキが単純に大人の男の世界が知りたくて飛び込むこともあっただろうが、大半は援交・ブルセラでお金を稼ぐ類の女の子だったと思われる。現にパンツ5000円とか、ホ別イチゴとか、書き込みは常に視界に入っていたけど、特別興味もなかったので流して見ていた。体を張って幾らかの金を手に入れるくらいだったら、その掲示板にわずかに出入りする、狭い界隈で名の知れたバンドマンや有名人の時間を独り占めすることの方が、わたしにとってずっと価値あることだと思っていたからだ。

でもこの時のわたしは違った。最新機種の携帯電話が欲しくて、猛烈にお金が必要だと思っていた。そのためなら体を売るのも厭わないと思って、いつもと少し違うテリトリーでターゲットを探すのだった。

わたしの年齢に反応したある人物と、後日会うことになった。

 

彼は、10代の女の子しか性の対象として見れない男性だった。職業は医師で、容姿も悪くない。彼もまた、こういった取引は初めてだと言っていた。わたしたちはお互い少し距離を取りながら歩いて、都会ではもう珍しくなった古いカラオケボックスに入った。

電気を完全に消し、声が聞こえないように音を最大にし部屋の死角に座る。学校のロッカーから持って帰ってきた体操着を傍にスタンバイさせておく。この時はまだ、そこまで緊張していなかった。その慣れた手つきを、彼はじっと見ていた。

「なにかありました?」

「いえ、何も・・・。」

そう言いながら、彼はリモコンを手に取り始めた。

「え、なんか歌うかんじですか?(笑)」

「あぁ、ちょっとまず気持ちを落ち着けたくて。」

彼は90年代に一瞬だけ大ブレイクした男性バンドの曲を熱唱し始めた。やることちゃちゃっと済ませてお金だけ欲しかったわたしは、少しでもこの時間が長くなることに苛立っていた。ひっきりなしに画面に流れる、青春とか、風、扉、みたいな明朝体の文字は、随分重たくて虚しく感じた。

ひとしきり歌い終わってから、彼は言った。

「やっぱりこういうことするのやめよう。君もこういうことするの初めてなんだろう?体で金を稼ぐことに味を占めちゃだめだよ。もしお金に困ってるんだったら、俺があげるから。」

彼は財布をガサゴソ弄り出して、2万円をわたしの手に持たせた。

「いや、エッチしないならそういうのいらないです。」

「いや、受け取ってよ。お金、まだあるから足りなかったら言って。それにまだ時間もあるし、カラオケしようよ。」

少し悩んでからわたしは、ほら、と手渡されたマイクをとりあえず握った。オレンジジュースの氷が、溶けてコップの中に半透明の層を作り出していた。

 

「楽しかったね。はい、これお小遣い。」

彼は3枚の万札をわたしに手渡そうとしてきた。エッチする約束だったのにさせずに楽しませてお金だけ払わせるなんて、流石にちょっと悪いと思った。

「やっぱりいらないです、お金。」

「なんでよ。記念だと思って持って行ってよ。」

記念。随分都合のいい言い分だと感じた。

あれだけしたかったセックスさえ断った俺が汗水流して稼いだ3万円で好きなもの買えってか。なにが記念だ。そんなもの、なんでわたしが手元に持っておかなきゃならないんだ。ていうか、そもそもなんで見ず知らずのお前と会った記念にこんな大金背負っておかなきゃならないんだ。重すぎる。重たすぎる。

結局、3万円は、物悲しそうに彼の財布に入って行った。

 

これでセックスしていたら、もちろんきっちりもらっていた。やることやったからそれの対価として。セックスで稼いだ金は汚いなんて一部の人は言うけれど、押し付けられて勝手に満足・納得されるための記念の金の方がずっと汚らわしい思った。

その怒りは一瞬でわたしの耳から頬を熱を持って駆け巡った。わたしは目をまん丸にさせながら大声で言ってやった。

「冴子、わたしやってないから!!」

一瞬トイレがしん、と静まり返り、誰かのマスカラが、コトッと落ちた。

ティッシュの眼差し

鈍い赤青緑のつぶつぶが、ぽつり、またぽつり、と光り始めるのと同時に現れた居酒屋と風俗のキャッチから逃れるように進む。下を向きながら歩くと、様々な発見がある。横断歩道は剥げてくるとごましおみたいに見えること。ネズミが昔より増えたこと。吐瀉物は乾くと黄色っぽくなるということ。

大通り沿いに少し歩いて信号を右に曲がったところにあるお弁当屋さんの隣にあるビル。エレベーターで鉢合わせる女の子と目を合わせないことは暗黙の了解だ。受付で借りた茶髪ロングのウィッグをかぶり、クロークに置いてあるふりふりのブラウスに着替え、ボリュームタイプのマスカラをまつげ一本一本に重ねてゆく。

テレビにあらかじめ設置されたUSBカメラを少し移動させて、画角の中に絶対に目を入れないようにすることに注力する。

『では本日もよろしくお願いします。』完結なやり取りをして、わたしは今夜も勤務をスタートさせた。


この場所の客の出入りは途切れることがない。朝方にサクッと稼ぐために入ったこともあったが、出勤前の時間帯だというのに大勢の住人で賑わっていた。今日も待機時間を迎えることもなくスムーズに会話を始める。

『こんにちはー^^』

わたしが出勤していたライブチャットは、基本的に客の声は聞こえない。客が打ち込んだ文章に、女の子が声で返答していく仕組みだ。

「こんにちはー、はじめまして。」

甘い声で返答する。この時点で『おっぱいみして』と言ってくる輩にはひとまず断るのだが、この人はそうではなかった。

『じゃあまず、唇を見たいな。』

唇が見たいなんて純情な人だ。そういえばわたしも人の唇をまじまじと見たことがない気がする。目が間違って画角内に入り込まないように、そのままカメラに近づき唇を向けた。

『ありがとう。なんだかムラムラしてきちゃった。パンツ見してくれるかな?』

シワが目立って来た紺のスカートから白い三角地帯をちらりと見せると、同時にレスが入る。『そのまま触ってみてくれないかな?』

最初はゆっくりおそるおそる手をのばし、盛り上がってきたところで手を早める。不用意に性器をこすらない。決まり手を淡々とこなし、そろそろかなと思ったところで、試しに1回イったふりをしてみることにした。

『もっと欲しいんでしょ?』

息を適当に荒げていると、すぐにレスが来た。なにももらってないんだけどね。でも時間ごとの報酬だから、会話は続けられるだけ続けられるととてもありがたい。今夜、1万は硬いかもな~、と、また無心でパンツをこするふりを続け、いいタイミングで再びイったことにしてみた。

すかさず返答が来る。

『もっと欲しいんでしょ?』

え・・・まだやんの・・・とりあえず息も絶え絶えに「うん」と答える。

『こんなにイっちゃったの、初めてでしょ?』

この人は今までどんな女の子とセックスをしてきたのだろう。その子たちは何度もイく子だったのだろうか。わたしはというと、どんなに盛り上がっているセックスをしても、1回イくので体力的に精一杯。その真実は置いておいて、淡々と仕事をこなす。発信されるたどたどしい言葉攻めと、たまにするのを忘れてしまうわたしの荒げた息。視線の交わらないやりとりは、淡々と時が流れて行く。

『もっと欲しいんでしょ?』

この時、すでに12回イったことになっていた。本当に12回もイっていたとしたら、痙攣しすぎて死んでいると思う。12回もイったことないからわからないけど。さすがにもう限界だった。潤滑油の一切ない状態でパンツをこする手も指も性器も痛い。っていうか、このままだとばい菌が大事なところに入ってしまう恐れがある。

「そろそろお水が飲みたいな」

ウィッグの下は蒸れてかゆいし、合皮のソファーにはお尻の形をした汗が溜まっていた。目にうつる景色は歪んで見えて、小さな虫がたくさん飛んでいた。

気分が悪いのでこの人とのチャットを停止したい旨をスタッフに伝えると、会話は即座に終わった。わたしはしばらくソファーから頭を落とし、じっとほとぼりが冷めるのを待った。


「君の代わりなんていくらでもいるんだよ」この前生まれてはじめて面と向かって言われるまで意識の彼方に放られていた記憶。チャットレディはすぐやめてしまったけれど、あのおじさんは、画角に入らなかったわたしの目について想像することもなく、次に目の前で12回イったフリをしてくれる女の子をすぐ見つけることができただろう。エレベーターの中でとうとう見ることのなかった女の子たちは、ティッシュペーパーと一緒に消費されていった。言われるだけマシな、でも仕組みはなにも変わらない世界に旅立ったわたしの代わりに。


横断歩道のまだら模様は、人が踏んだ場所から今日もすり減り続ける。カラスが吐瀉物の周りに集まってきて日が昇る気配がした。アイロンするのもめんどくさいので、紺色のスカートはもう捨てることにした。剥き出しになってしまった精神をふらふらの体で包みながら駅の方向へ向かった。

ほぐせぬまま

高校生の時も、なにかと気を使う場面が多かったと思う。友達付き合い、彼氏の前、親や先生の前。あとあの頃はコンビニでのアルバイトも始めたおかげで、大人と接する機会が多くなった。突然の大人扱いは少し嬉しくもあり、疲れるものでもあった。

だから近所に整体院ができた時、わたしは喜んだ。学校で、バイト先でナメられまいと伸ばしていた背筋をほぐしてくれる場所があるのはありがたかった。週3回のシフトで稼いだいくらかのお金を使って、月2回ほど通うのが楽しみだった。

 

 

通い始めたある日当たった一人の先生。名前をS先生とする。ひょろっと長身で少し頭のてっぺんが薄い、40代くらいの真面目そうな男性。「よろしくお願いします」と口にしたその落ち着いた声と表情は、噂通りの優しい空気で溢れていた。

 

家族ぐるみでよく行っていたので、食卓でS先生の話が出ることが何度かあった。母がよく担当になる先生で、とても優しくて施術もうまいと評判だった。前回の先生の施術があまり上手とはいえなかったので、その時はうまい先生についてよかったなとしか思わなかった。

 

マッサージ用ベッドにふとももが触れると、しっとりと冷たく感じた。教室はクーラーもついてなくて暑いから、気持ちいなあ。うつ伏せに寝かされ、30分間の施術が始まる。それまで優しい表情を浮かべていたとは思えない強い腕っぷしで、わたしの背筋の凝り固まった所を狙ってほぐしていく。はあー、と思わず何度か深い息をした。

 

仰向けになると、S先生がわたしの脚を折り曲げて体重をかけてくる。ふと、S先生と目が合った。施術している時のS先生の顔を見るのはこの時が初めてだった。目が笑っていない。というかそもそも最初から、口調やまとっているオーラが優しすぎて何を考えているのかわからない。

その衝動は突然襲ってきた。こんなに無機質に、淡々とわたしの体の凝っている部分をほぐしている。わたしだって女子高生だし、バイト先ではちょっとチヤホヤされているし、男だって知っているんだよ。「どうせそういう気持ちになっているんでしょ?」と、この大人をちょっとからかってみたいという衝動が、どうしても頭を支配して離れなくなってしまった。

下唇を甘噛みし、眉間にしわを寄せてみる。時々歯から唇を離して、また甘く噛む。セックスをしている時、自分はきっとこんな風に顔を歪ませているんだろうなと想像しながら、でもあくまでも軽いニュアンスで。漫画喫茶やカラオケでする時、声を出さずに相手に「気持ちいい」と表情で伝えるように。S先生が上になっているこの状況で、表情を作り出すのはイメージしやすかった。軽くつむった目でちらっとS先生を見てみる。S先生は、やはり笑っていなかった。

 

施術が終わっても、わたしは呑気だった。むしろ「してやった」ぐらいの気持ちでどこか満足げだった。S先生はさっきと変わらない優しい表情に戻っていた。会計を済ませ、整体院をあとにした。

家に帰る途中で汗を拭くためのハンカチを忘れてしまったことを思い出した。家路とは少し違う場所にあったので、引き返すのも面倒だ。どこかのタイミングで取りに行かなくちゃなと思って、そのまま一週間が経った。

 

期末試験を終えていつもより早く学校から家に帰ると、母親が血相を変えてわたしのところに飛んできて、一通の手紙を渡してきた。

「とにかくこれを読んで」

わたし宛のその手紙の封を開けると、文字が敷き詰められた便箋が現れた。読んでいるうちに、自分の背筋が凍っていくのがわかった。

「こんにちは。Sです。整体院にハンカチを忘れていきましたよ、っていうご報告のお手紙を書いちゃいました。そういえば暑くなってきましたね。もうすぐ夏休みとおっしゃっていましたね。どこか遊びに行きましたか?わたしはどこにも遊びに行っていないんです。(他愛もない話が続く)ハンカチは僕が個人的に預かっているので、もし取りにこれるのならば、また整体院にきてください。それか僕に連絡をくれればいつでも届けに行きますよ。だからいつでも連絡ください。待ってます」

 

わたしを恐怖のどん底に陥れたのは、うちのポストに消印がついていない状態で届いたということだった。保管されているデータから辿ったのだろうか。これから起こるかもしれない最悪の事態が頭をよぎって、こめかみから汗がだらだらと流れる。同時に、自分がしてしまったことの重大さについても、ずっと考えていた。

 

母親は「S先生はストーカーだ。どうしよう。」とパニックになっていた。いやお母さん、この件はわたしも悪い。わたしがちょっとふざけてエッチな顔をしたから、先生きっと勘違いしちゃったんだ。でもこんなつもりじゃなかった。わたしがちょっとからかっちゃったんだよー。そんなことを母親に言えるはずもなく、わたしはただ黙って、靴下を脱いだばかりの足の裏から感じるフローリングの冷たさを感じることしかできなかった。

なにが一番怖かったって、目尻を下げた目の奥が一切笑っていなかったように、まみれた欲望の裏に燃えたぎる怒りがびっしりと敷きつめられているような気がしたからだった。わたしは少し寝込んでしまった。

 

ハンカチは母親が取りに行った。それ以降、わたしたち家族はその整体へ行かなくなった。

 

あの手紙以降怖い目にあうことはなかったけど、もう大人の、特に男性をからかっていい年齢ではないんだ、とあの時初めて思った。そしてそれは、一部ではあるが男性という屈することのできない未知の存在を容認しながら生きて行くという、潜在的な薄い不安みたいなものが生まれた瞬間でもあった。

この前久しぶりに実家付近に立ち寄った時、あの場所はもう整体院ではなく別の店になっていた。ナメられまいと伸ばした背筋は、10年経った今もそれほどほぐれていない。

証人

以下の記事の続編です。前半に書いてある話の詳しいことは、この記事に書いてあります。 

 

leinishikata.hatenablog.com

 

 

 

風が当たりすぎるあのカフェは汗を一瞬で奪って行ったはずなのに、再び噴き出した汗がTシャツに染みを作っていたのを見て、この世界で実体として存在していることをあらためて再確認した。生きている限りそんなことは当たり前なんだけれど、わたしにとってこの確認作業は避けては通れない作業なのだ。今足を踏みしめるこの浮世から別の世界に移動することなんて、現代ではとても簡単にできてしまうから。

 

13歳の時、はじめて親からもらったケータイからアクセスしたその世界で、わたしはマイと名乗って存在していて、そこでハルという男性に出会った。ハルとは不思議な、でもとても良好な関係を築いていたが、色々あって連絡を取らなくなってしまった。初めて出会ってから14年、最後に会わなくなって約10年が経ち、わたしはこの小さなカフェでハルと再会した。それが1時間前のこと。

この一見とてもドラマチックに見える再会は、盛り上がりに欠けるものとなってしまった。わたしはてっきり、今でもマイと呼ばれても何も違和感のない状態でハルと会ったが、ハル自身がもうハルではなかった気がした。目の前でコーヒーをすする男性は、管理職サラリーマンで、一人娘を持つ父親で、アスファルトをしっかり踏みしめる一人の男性だった。ハルの面影は幻想に過ぎなかった気がして、少しだけ肩を落として坂道を降りた。5月の暑い日だった。

 

マイとハルは偶然にも住んでいる場所が近いことがわかった。飲みに行くのは自然な流れだった。もっと暑くなったこの日、夜の街に繰り出した。

14年という長い月日を埋めるのには、カフェの1時間ではあまりに短かすぎた。だからといって今更何を話せばいいのかわからなかった。この前の1時間で、マイとしてはすべて話し終えたつもりだった。少し高い椅子。4人掛けの木のテーブル。座高のバラバラなふたりは、視線がぴったり合わないまま、お互いの現在の生活について話していた。この前カフェでした話にちょっとだけ肉付けした程度の、誰にでも話す他愛ない話。

 

「マイのその話し方、変わらないな。」

突然ハルがつぶやいた。

「わたしも思ってたよ。ハルの話し方変わってないなって。何話したかまでは忘れちゃったけどね。」

「おれはマイと会って何をしたかまで、全部覚えてるけどな。」

シャンディガフのグラスは、いつしか机に丸くかたどられた水の足跡をつけていた。

「初めて会った日、おれたちは一緒に漫画喫茶に行ったんだぜ。覚えてるか?そこでな、学校の宿題を見せてもらったんだよ。それからお前の家の近くまで送って行ったこともあったなあ。ほら、あの難しい名前の場所だろ。あたしの家ここ曲がってすぐだから、って言ったから、おう、って言って、別れたんだぜ。」

ハルの口から次々と出てくる話を、マイはなに一つ覚えていなかった。

 

気づいたらせきを切ったように、マイはハルに思いの丈を伝えていた。メールしていた頃は楽しかったのに、会った瞬間からなにかが変わったような気がしたこと。ハルは東京に来て変わってしまったかもしれないと思ったこと。そして、この前会った時も、もうハルとマイじゃないのかもしれないのが怖かったこと。ハルは優しい表情を浮かべながら黙って聞いてみた。

 

「わたしに手を出してこなかったのって、なんでだったの?」

一番気になっていた話をハルにしてみた。ハルは何杯目かのハイボールを喉の奥に流し込んでから言った。

「マイは若すぎたんだよ。」

男女の仲を最初から約束するための場所で、年齢とか、住んでいる場所とか、境遇で、マイとハルは男女にならなくて、その事実がマイという女の子をこんなに未来まで延命していた。そして、マイが確かに存在していたことを一番よく知っているのが、マイ自身ではなくてハルだった。それにマイはやっと気づいた。

 

「なんだ、マイ、背がのびたな。スタスタと前を見据えてよく歩くじゃないか。」

たくさんの車の駆け抜ける大きな音の中でも、その声はよく通って聞こえた。

「これからもそのまま前だけ見てまっすぐ歩いていけよ。」

変わらないハルがそこにいた。わたしは?わからない。でもハルが覚えている限り、わたしはきっと今日もマイでいられる。これまで互いの体に一度も触れ合ったことがないけれど、10年前の渋谷の、漫画喫茶の、メールの、そしてメル友募集掲示板での記憶を忘れない限り、これからもこの世界で、お互いの存在を信じることができる。

分かれ道、わたしは少し狭い北方向の道を、ハルは大きな通り沿いに東へ歩いて行った。わたしは少し行ってから立ち止まって、再び分岐点へ戻ると、ハルはまだ東への道のりを歩いていた。いつでも会える距離だ。こうしてマイの記憶をまた引き出すことができる。久しぶり、マイ。わたしはマイにやっとその言葉を言えた気がした。街灯の下。リネンシャツは生ぬるいをはらんで、脇の下を膨らませる。その下に着たキャミソールの汗はとっくに乾いていたけれど、何も思わなかった。小さくなってゆくハルの背中を、わたしはいつまでも見ていた。

0.03mm

今や0.01mmが登場しているのだから、すごい時代である。でもやはり自分としては0.03mmくらい厚さがある方が安心できる。コンビニに行けば必ず置いてあるし、いざという時でも大丈夫。欲しい時にすぐ買える。

 

 

喉がからからで目が覚めた。狭いシンクに向かってよろめきながら歩く。全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出して、体がしっとり濡れているのがわかった。頭がぼうっとして、視界には白っぽい塵みたいなのが無数に飛んでいる。薄汚れたコップにぬるい水を入れて、一気に飲み干す。生ぬるい川がお腹の方までゆっくりと到達する。二杯、三杯、それからもう一杯。飲んでも飲んでも、満たされた気持ちにならない。なんというか、体が潤っている感じがしない。ただ体の奥に水を押し込んでいるだけなので、尿意だけが生まれる。

小さな、でも誰も触れようとしない湖に、ぽたぽたと、川の終着点がしたたり落ちる。この穴は出るばかりで、何も入っていない。ここが今確実に満たされていない。早急に、この穴に棒状のものを入れたいと思った。

 

 

自慰の習慣が無い。というかできない。それなりに経験はある方だけど、自分で異物を入れるのは怖くてたまらないのだ。

二年ぶりに連絡を取ったその相手は、かつてすごく憧れていた先輩だった。最初にセックスできたときは言葉にできない感動と達成感を覚えた。しかし一度コンドームが破れてしまい、アフターピルの金を一銭も出してくれなかったことで、一気に冷めてしまってそれっきりだ。

『久しぶりだね。昨日ならよかったのに』いやいや昨日がなんなんだよ、今日の話なんだわ。訳がわからない。こうなる予感はしていた。

 

 

交差する人。詰め込まれる電車の中。東京にはこんなに人がいるのに、この穴を埋めてくれる人がいないのはなんて悲しいんだろうと生まれて初めて思った。長期間求められたいなんて、そんな大それたことは言わない。むしろ短時間がいい。3時間とか。あと合法がいい。いきなり襲われるとか嫌だ。破ける心配の少ない0.03mmの信頼関係だけは確実に築いて、あとは入れてくれるだけでいい。最近3ヶ月以内、幾度かのセックスチャンスはあったはずなのだけれど、どんどん手放してしまってもう持ち駒は無い。かといって職場の人は絶対に絶対に無いし、昔の友人に「久しぶり!今日セックスできない?」など言える訳がない。ていうかこれに関しては失敗談があって、友人に手を出してしまったばかりに、もうその彼と話す気も起きなくなってしまったのだ。ああいった悲しい事件は風化させまい。次に繋げるのだ。つまり何が言いたいかというと、今築いている関係から体を重ねるまでの関係に変化させるのは、ドキドキして楽しいけど、その後のことを考えるとちょっとハードルが高すぎる。でもこの穴を満たしたい。満たしたいのだ。でも。今いる世界じゃ、この欲望はどうしても成し遂げられなかった。

もう仕方ない。わたしはわたしの中に、また一人わたしを作ることにした。

 

 

昔からスミレという名前の女の子に憧れていた。儚げで、細くて肌が白そう。あとこのクソ暑い時期、薄いベージュの麦わら帽子と白いワンピースを着て小さいお花をカゴいっぱいに入れてそうな、スミレちゃん。わたしはそんな可憐なスミレちゃんを、Tinderでも掲示板でもなく、Twitterに生息させることにした。

今までインターネットで数々の人間と出会って来たけれど、Twitterで出会うのは初めてだった。見よう見まねでスミレちゃんに吐き出させる。

『今日会える人いませんか?#裏垢』

ハッシュタグに手繰り寄せられ、スミレの通知は男性の欲望で埋めつくされた。この時は正直もう誰でもよかったので、すぐさまDMを解放した。

真っ先に反応してくれたのは、30代の男性だった。彼もスミレと同じような目的でTwitterをやっているという男性だった。もうこの人にしちゃおうかなと思ったところで、いきなり男性は卑屈な言葉を並べ始めた。『体型のことが気になるから、もし嫌だったら会わないほうがいい』『アソコも小さいから俺だとよくないかもよ』いちいちうるさい。しまいには聞いてもいないのに『俺は嫌われ者なんだ』と突然言い出す始末。誰でもいいと豪語してきたが、ヨシヨシしてほしいなら他を当たってほしい。スミレは丁重にお断りした。

二人目は大学生だった。自分が学生じゃなくなった途端、学生にはもっといっぱい女の子と出会えるチャンスあるでしょと思ってしまうのはなぜだろう。しかし彼はあろうことか、スミレに自分の地元の駅まで来いと言い出した。嫌だというと、『俺金ないんだよね』とのことだ。OLは俺より金を稼いでいるだろうからと思っているのか知らないが、随分舐めた態度で突っかかって来た。そもそもスミレは出張に対応していない。移動時間は極限まで削らないと、0.03mmの信頼関係は成り立たない。スミレは再び、丁重にお断りした。

正直、楽勝だと思っていた。でも体の一部の写真も公開していない、アイコンはグレーの人物マークのままで、色々わきまえている人は少ないのかもしれないなと思った。いくら薄い関係を希望するからって、流石に適当すぎたかなと思ったところで、別人物から反応があった。

3時間ぐらいがいいんですけどと伝えると、僕もそれくらいでいいですとのことだった。場所もお互いの希望が一致し、時間帯もちょうどいい。30代男性、見た目普通。与えられた情報はこれだけだったけれど、この人でいいかと思えた。

初めてTwitterで出会ってしまった。いやネットで今まで散々出会って来てるのに今更こんなに緊張してるなんて意味がわからないんだけど。でもこれはいわゆるオフパコ・・・。顔も見せていないのになんでこの人わざわざわたしと会いたがるんだろう。冷やかしだったらどうするつもりなんだよ。もしかしてヤク中?

『キメセクとかはしたくないんですけど・・・。』

『僕、なんかアブノーマルな印象になってるんですかねwオモチャ使うのは好きですけど、キメセクとか、首絞めとかは好きじゃないです』

よかった・・・会って突然言われたらどうしようかと思った。

『はは、なんかスミレさんって出会ったきっかけは変だけど、なんか面白い人ですね。』

いやいや怖いじゃんこのご時世・・・。さんざんアプリ使っといてこのご時世とか何言ってんだって感じだけど。しかしまだ喉は渇く。電車の中は暑すぎるのだ。さっきから駅の自販機で買った水を飲みまくっているのに、一向に喉の渇きは抑えられない。家の小さなシンクから出てくるぬるい水道水とは、温度しか変わらないのに。

やっぱり水だけ体に押し込んでいるだけでは、尿意しか生み出さなかった。その名前も知らない彼との待ち合わせの駅で、慌ててトイレに駆け込んだ。扉を閉めて少し経って、穴から滴る血に、これから始まる一週間を宣告された。

 

 

『そうですか、了解です。じゃあ今日は何もしないということで大丈夫ですか?』

そういうことでお願いします。普通に申し訳ないし、タイミングが悪すぎる。なぜよりによってこれからという時に。わたしは帰路につくことにした。白いワンピースに染みがつく前で、心底良かったと思った。

再び通知があったので見てみると、先ほどの名前も知らない彼からだった。

『もし会えたらお茶でもしませんか?また別の機会もあるかもですし。』

すでに電車はもう発車してしまって、家の方面へ進んでいた。蛍光灯が煌々と光るトンネルを抜けると、窓から見える無数の光は尾をつけて流れていた。もしかしたらわたしたちも、会っていたら3時間だけ、あんなふうに整列された光に並んだかもしれなかった。

トイレから出た瞬間から、スミレの皮などもう溶けて無くなっていた。わたしはもう一度スミレの皮を被ろうかと一瞬思ったけどやめた。0.03mmの関係に、過去も未来も必要ない。欲しいのは、薄いけど確実な現在。それくらいがちょうどいい。

陰日向

今週のはじめ。空気のこもり気味な部屋で、何日か前に作り置いていたカレーを温めていた。

冷やご飯もせっかく温めていたのに、ラップを取って少し浅すぎるお皿に盛り付けると、すぐに熱が奪われてしまった。冷蔵庫の中で眠っていたカレーは、少し固くなっていた。スプーンの先をコントロールしながら軽く混ぜる。ご飯とルウは絡み合ってぴちゃっと音を立てた。

安いソファーの上でカレーを食べながらスマホTwitterを見ていると、やはりもうROCK IN JAPAN2018の全アクトが発表されていた。長い長いラインナップを、利き手ではない方の不安定な手でなでるようにスクロールする。一昨年あたりからこういった大型フェスで、見慣れた名前をぽつりぽつりと見つけるようになった。見慣れたというのは、よく雑誌やテレビで見ていたという意味ではなく、かつて同じ場所で同じように音をかき鳴らしていた、まるでクラスメイトのような存在の意味での「見慣れた」。身近だったはずの存在は、いつの間にか日本の音楽シーンを代表する大舞台に呼ばれるようになっていた。

 

3歳からクラシックバレエを習っていた。毎年4月の終わりに発表会があって、リハーサルの風景を舞台の袖から眺めながら出番を待つことが何より楽しみだった。成長するにつれバンドマンに憧れたり邦楽ロックを好きになったけれど、あの舞台袖に立つ直前の脚がゾクゾクする感覚が忘れられなかったのが、高校生活をバンド活動に捧げた一番の理由だったのかもしれない。

受験のためにバンドは一旦辞めたが、20歳の時初めてROCK IN JAPANに行って、爆音と空の広さに圧倒された。「またできればバンドをやりたいな」とうっすら芽生えた感情は、のちのメンバーになる人たちとの出会いで色濃く炙り出されることとなった。

 

当時の自分の目標は、大きな舞台に立つこと。少ないバイトの給料から練習代や機材代を捻出して、ただその目標だけを見ていた。

とはいっても、日本でフェスに出たいバンドは数え切れないほどいる。その中で才能も人気も認められて実際にあの広大な舞台に立つことができるバンドはほんの一部だ。だから、金もコネもないわたしたちは「優勝したらフェスに出演できる」といった、主催が開催するコンテストに応募し続けた。中には視聴者参加型の投票制のコンテストなんかもあったりして、SNSで友人や知人に投票を呼びかけた。

コンテストには落ちまくった。わたしは自分のしていることが怖くなった。そもそもわたしは音楽が好きでやっていた訳ではない。ただ広い舞台で自分たちが音楽を奏でることで、たくさんの人を陶酔させることが目的だ。うちのギターが書く曲は傑作ばかりだったけれど、その素晴らしい種を1つの作品になるまで育て上げて他人に才能を認めてもらうほど、自分たちに技術や人気がある自信はなかった。

 

バンドを辞めた頃から、大きなフェスのラインナップでちらほらと昔見たバンドの名前を見かけるようになって、少しずつだけだけれど今までその数は確実に増えている。そしてわたしも毎年夏の初めに公開される、なんとなく気になるこの発表を、息を呑んで眺める。カレーはまた冷たくなって、水気のなくなった米に絡みついてわたしの隣に寝そべっていた。もう少し続けていたら、自分ももしかしたらあんな風になれたかもしれない。そんな思いが毎回噴きこぼれそうになるのを、何回か前の夏から必死で押さえつけることを繰り返した。その瞬間だけ湧き上がる激しかったはずの気持ちは、このところやっと容易に沈めることができるようになってきた。

 

社会人になって初めて迎える夏も、やっぱりこうして始まった。でも今年は訳が違う。学生が夏休みに入ったとしても、同じように朝起きて、同じように会社へ向かう。きっとわたしは暇すぎたから、考える量も多かった。でも夏にやることがやっとできたので、立場のおかげで昔追った夢を本当の意味で忘れられそうな気さえしている。

この冷めてしまったカレーには、少し炒めてチーズでもまぶしたらまた美味しく食べられることを、わたしはもう知っている。大きな舞台ではないけれど、自分が今立つべき場所はやっと見つけられた。影が敷き詰められていて、でもたまに日が差すこの場所こそ、昔憧れた舞台袖に本当は一番似ている環境なのかもしれない。でも、もしその先に舞台が広がっているのならば、そこへ1度でいいから飛び出してみたい。昔夢見た場所なのか、夢にも見たことがない場所なのか、まだわからないけれど。その日が来るまで、日焼けした肌みたいに胸の中をたまにこうしてヒリヒリさせながら待っている。