西片例の、

スプーン一杯のノンフィクション

諦めをひろった日

アニメや漫画の世界に出てくるような、「清らかな」小学校に通っていた。女の園。着崩すことを許されない、揃った制服。朝と夕方、そして食前食後の長い長いお祈りを淡々とこなし、週に2回は聖堂。先生にタメ口などもっての他で、通り過ぎる際には「こんにちは」と挨拶しなければならない。そういえばあの校内をウロウロしていたシスターたちは、今思えば教員免許を持っていたのか不明だ。もちろん娯楽は厳しく制限されていて、エロ漫画「げっちゅー」を回し読みしていたことがバレた時は視聴覚室に4時間ぐらい閉じ込められ、様々な先生に代わり番こで叱られた。

小学生の時のわたしは、実物の男性との接し方が全くわからなかった。その反動からか、テレビに出て来た自分好みの男性芸能人の名前をコレクションする『わたしの好きな男』と表紙に書かれたノートを隠し持っていたりしたけれど、実際の男性と接する機会も父と兄弟以外ほとんどなかった。

 

6年生になったわたしは、げっちゅーの件や度重なる不祥事によりエスカレーター式の中学に通うことができなくなり、受験をすることになった。しかし自力で合格できるほどの学力は無かったため塾に通った。木登りをするだけで「はしたない」とシスターに叱られていたようなわたしだったが、初めて教室に入った時は、奇声を発しながら物をぶつけ合う男子たちを見てその有り余るエネルギーにただただ圧倒されてしまった。

塾は日曜日に無料で自習室を解放していた。教育熱心だった母に言われ、わたしは毎週日曜日の昼間自習室で勉強していた。いつも同じ時間に何人かの生徒が勉強していたのだが、その日の利用者はわたしと、わたしの席の前に座るもう一人しかいなかった。トイレに行くために席を立ち、なんとなくどんな人だろうと確認してみる。なんと彼は『わたしが好きな男』ノートの一番目立つところに書いてある男性芸能人と顔がそっくりだったのだ。胸が脈打つのがわかり、頬がみるみるうちに赤くなっていくのがわかった。

トイレから帰ってくると、彼がなんと少し前の席に移動していた。とっさにわたしはしなければならない衝動にかられ、物音をなるべく立てないように、彼が前に座っていた席へ向かった。まだほんのりと温かい学習椅子が置かれた床に、短い髪の毛が落ちていた。もう一度顔を上げて、彼の丸まった背中を確認する。そして素早く髪の毛を拾って、自分の席に持ち帰りティッシュに包んでバッグに入れた。

 

次の授業の日、塾に到着すると大量の男子たちの中で彼を見つけた。他の男子は今日も消しゴムを投げあったり他の女子にちょっかいを出して遊んでいたが、彼だけは物静かに前を見て歩いていた。もちろんその姿をずっと見ていた。途中で少し話したことのある女子が彼に駆け寄り、何かを話す。2人は少し話してから別れ、彼はそのまま一番勉強ができるクラスの教室に吸い込まれて行った。

あの日以来、子供部屋の机に行くことはわたしの楽しみになった。その日も家に帰り、勉強するふりをして椅子に座る。ティッシュの包みをそっとほどき、時々指先で持ち上げてみたり、先っぽをさわってみたり。そして息で吹き飛ばされないように優しく話しかける。本当は学校を辞めたくないことを、塾のうるさい男子とは違って勉強ができてすごいねということを、懲りずにまた借りた漫画がどんなに面白いかを、話し続けた。次の日も、その次の日も。

友達に便乗したらちょっと話せたのかもしれないけれど、女子校育ちのわたしはそもそも男子への話しかけ方がよくわからなかった。無理に話しかけて気持ち悪がられるよりも髪の毛に話している方がずっと気が楽だった。たとえこの先ずっと話せなくても、あの日運良く彼の一部を拾えただけで、まあいいかなと小学生ながら思った。

 

中学に入ると男子としゃべれないなんてことは無くなったけれど、女子校に守られていたマインドは十数年経った今も全く変わらない。とにかく男性と何かあるたびに、ずっと似たようなことを思ってしまう。一緒の通学路だったからまあいいか。出会えたからまあいいか。朝まで一緒にいれたからまあいいか。ていうかむしろここまで進展したことがすごい。そうやって節々を切り取って最後のページを無理やり貼るように結果をつける。自己主張をしたり状況を変える努力をするのではなく、自分に、そして男性に、初めから小さく諦めている。

というような話を今日友達にしたら、「どんだけひねくれてんだ」とびっくりされてしまった。

UMAの真実

ネス湖のほとりに小屋を作って、ネッシーを四六時中観察している人がいる。少年の頃に見たネッシーが本当に存在することを世界に証明するためらしい。

そもそも今から1500年ほど前から目撃談が叫ばれているにも関わらず、今日まで捕獲には至っていない。様々に写真が捏造され、自然現象と誤解され、エンタメの材料にされる。それでもなお信じる人々の心の中にネッシーは今も居座り、人々の記憶を食べながら生き続けている。

 

あれはわたしが淫乱女子高生だった頃の話。昼休み、いつものように右手にリプトンの紙パックを、左手にバータイプのガラケーを持って出会い系サイトを漁っていた。当時のわたしは少しでも知名度のあるバンドマンと体を重ねることが最高のステータスだと思っていて、どの規模のライブハウスで、ツアーはどこに行っているのか、事務所に入っているのか、そういう基準で男性のペニスを測ることが普通だった。

そこで目に入ったのは、全国ツアーもしていて、それなりに広いライブハウスでのライブ経験があり、少し音楽の詳しい人ならよく知っている名前、という魅力的なプロフィール。わたしはその書き込みに飛びつき、自分がいかに若くあなたの要望に答えられるかというころを熱弁した。努力のかいあってわたしたちは授業が終わった後に会えることになり、新宿駅前で待ち合わせた。

メールの段階で、すでに他の人とは違うことに気づいていた。実際に会ってみると、その予感は的中した。この人、優しすぎる。熱弁した自分についての話はあまりこの人にとって重要ではないような気がした。なぜあのような、インターネットの下水道みたいなところにいるのか全く理解できないほど、純朴な青年だった。この人が作る音楽はどんな音楽なんだろうと、出会い系で出会った男性に初めて感じた。

ドブ臭いカラオケボックスに入ると、わたしはそのまま乳首を指先で弄ぶように部屋の電気を転がして消し、カラオケをつけて部屋をカモフラージュした。ごめんね段取り悪くて、今日会えると思わなかったから嬉しいよありがとう、みたいなことを言っていた気がする。下がる目尻は、ダムチャンネルの流れる暗い部屋でもすぐにわかるくらいにやっぱり優しかった。

膝にまたがりキスをする。そのままかちゃかちゃと彼のベルトを鳴らしながら解くと、ちょっとまって、と彼はわたしの手首を包むように掴んだ。

「僕のあそこ、マジで大きいんだ。ゴムも入んないかもしんなくて。」そう囁いた。

高校生にして経験人数を数えることをやめていた(諦めていた)わたしも、大きなペニスの一本や二本は容易に思い出すことができる。「俺のあそこ、めっちゃでかいでしょ」という言葉を添えて目の前に出されたそのペニスたちもたしかに大きかった。だからそれほど身構えずに、気楽な気持ちでチャックを下ろしたその瞬間だった。

彼のへそめがけてベッチーン!と当たったそれの太さは、ペットボトルくらいだっただろうか。長さも、わたしの手の付け根から肘くらいはあった気がする。馬並みとはこのことで、とにかく今まで見たことがないくらい、太くて長い。

今までの大きさとは明らかにレベルが違う。腰を抜かすかと思った。同時にちょっとした恐怖に苛まれた。この信じられないほど大きなペニスを、わたしは本当にこれから受け入れなければならないのだろうか。膝にまたがったまま見上げると、少し困ったような顔で、でもやはり優しい笑顔で微笑む彼。人生一度きり、こんな化け物級に出会うことそうそうないぞ。そう言い聞かせ、わたしはそのペットボトルほどの大きなペニスを受け入れることにした。

少し腰を浮かして、わたしの入り口に彼のはち切れそうな先っぽをあてがう。その時点で「あ、これは無理かもしれない」と悟った。赤ちゃんの靴下に大人の足を無理やりねじ込むような感じ。絶対にサイズが合ってないのだ。たしかに膣という器官は非常によく作られていて、入って来た異物を皮膚全体できちんと受け入れられるような構造になっている。でもわたしはこの時、膣にも規格サイズがあるのだと知った。あの化け物級に合う規格サイズが存在するのかが謎だけれど。

 

実は記憶がここで止まっている。それ以降どうしたのかを、もうずっと思い出すことができない。入れたような気もするし、入れてないような気もする。よく考えると手慣れた手つきでカラオケの電気を消してダムチャンネルをつけたのは全部彼な気がするし、そもそもあんなところで出会った人が本当にあんなに優しかったのかも分からなくなってきた。

もしも彼に街ですれ違っていたとしても、絶対に気づかない。結局なんのバンドで何を担当していたのかわからなかった。それにもう顔を忘れてしまった。優しく下がった目尻とは概念でしかなくて、そもそも目がどんな形だったかを思い出すことなんてできない。人に話しても「絶対嘘だよ」「そのちんこの大きさはありえない」のオンパレードだ。でもわたしの前頭葉が、まぶたが、そして膣が、はっきりと覚えている。人間では到底ありえない大きさの、チャックの隙間からにょきにょき生えてきたネッシーを、わたしは絶対に目の前にしているはずなのだ。

小さきものたちの夢

部屋の中で、小動物を飼っている。部屋に迎え入れるのは、子猫や子犬、うさぎやモルモット、ヒヨコに毛虫と、毎回ちがう、小さくてもこもこした動物だ。それを優しく両手で包んで、使っていないタンスの引き出しに入れてやる。床下、ベッドの下の隙間などのパターンもある。最初の方は1日に何度も引き出しを開けて様子を見守ったり、部屋に留守番させていることが心配で、早く帰って餌をやる。小動物は嬉しそうにわたしの手首を甘噛みし、わたしは小動物のお腹に顔をうずめる。でも次第に日々の忙しさとか、めんどくささとかそういった理由で、動物とのスキンシップができなくなっていき、引き出しを開けるのも、1日に1回、3日に1回と、だんだんペースが減ってくる。実に無責任な話だ。当然、動物は衰弱する。引き出しを開けると、濁った目をした動物が口を開けてこちらを見ている。ごめんね、お水あげるからね。そう言ってその時は沢山の餌と水をやるのだが、引き出しを閉めるても次に開けるのは自分でもいつか分からない。そうして月日が経ち、かつて動物を飼っていたことなどとっくに忘れてしまい、何ヶ月かぶりにほこりをかぶった引き出しを開ける。するとそこにはカピカピに乾きミイラ化したかつて動物だったものが目を見開いて倒れていて、

「うわ、わたし動物飼ってたこと忘れてた!!」

と叫ぶところで決まって目が覚める。19歳くらいの頃から、定期的に見る夢だ。

 

うさぎがお盆にうちに連れてこられて来た時、ゲージ代わりに入れられたダンボールの角で小さくなって震えていた。でも今じゃ1日朝晩3時間ほどゲージから出されると全速力で部屋中を駆け回っている。

うちのうさぎは絶対にトイレを守る。今のところ、膝におしっこをかけちゃったとか、そういった間違いは絶対にしない。ゲージ越しの世界をまっすぐに見据えながら100均の水切りかごに腰を据えるのは、見ていてこちらまでなんだか誇らしい気持ちになる。困ることといえば、あらゆる淵という淵をガリガリ噛みたがることと、カーペットを掘りまくって噛んでガンガン引っ張ること、あとはこうやって何か作業をしてくると、撫でることを催促するように鼻とつんつん突いてくることだ。

 

うさぎは牧草を食べていると落ち着くのか、食べながらコロコロと糞をすることが分かった。牧草入れを移動させ、トイレの前に設置してやった。

うさぎを飼う時、ペットショップの店員に注意点をいろいろ聞いていた。うさぎはデリケートな生き物で、とにかく暑さと湿度に弱い。だから部屋の温度は一定にしていてほしい。さらに毛玉を吐き出す能力がないくせになんでもかじりたがるので、お腹を壊しやすい、高いところからジャンプすると、骨折の可能性もあるなど。思ったより手のかかる子なのだなと思いながらも、これから一緒に過ごせる何年間かのそのすべての瞬間に愛情を注ぐことを決めた。

その日はうさぎを家に迎え入れて、初めて1日家を空ける日だった。

お盆休みにうさぎを迎え入れて2日ほど一緒に過ごしていたので、うさぎを置いて1日出かけることはまだ未知だった。とりあえずまだうさぎにどのくらいの分量の餌を与えればいいのか分かっていなかったので、まあこのくらいだろう、と牧草入れに牧草を入れておいた。

数日ストップしていた会社は、一気に活気を取り戻した。数日間の停止を取り戻すべく、何人もの人が昼飯を食べる時間も忘れて仕事をしていた。わたしもそのうちの一人だった。それでも頭の中はうさぎでいっぱいで、時計を見るたびに

「あと5時間・・・」

と途方も無いカウントダウンをしていた。

やっとカウントダウンがあと1時間になった時、上司に呼ばれた。「今から俺と現場立ち会ってくれない?人手が必要で・・・」

内容は撤収作業の手伝いで、1時間もかからないと思った。今日1日頭のほとんどを占めていた不安がさらに肥大化していくのが分かった。少しでも忘れようとブンブン振り払い、はい!行きます!と元気よく答えた。

撤収場所は大勢の人たちが並んでいた。真夏の夜、蒸発した汗で酔ってしまいそうだった。どうやらまだ誰も作業に入れていないようで、わたしたちもその後ろで待つことになった。一緒にプロジェクトをした顔なじみの業者さんと合流する。「最近うさぎを飼い始めて」と、うちに来て間もない子ウサギが心配だから早く帰してくれアピールを必死にしたのも虚しく、やっと入れた現場で淡々と作業をこなし、結局帰ったのは2時間後だった。

帰りの車中、上司が「肉食いてえ~。」とつぶやいた。肉ね。わたしも食べたい。疲れたからビールも飲みたい。でも今日じゃない。今日は家のウサちゃんが心配で、自分が悠々と肉を食べている場合ではないのだ。と思っていると、車はバックを始めた。窓越しに外を見ると、ネオン管の「焼肉」の文字がチカチカ目に飛び込んでいた。

 

肉を焼きながら、サンチュに肉を包みながら、ビールを上司のグラスに注ぎながら考える。今頃うさぎは牧草を食べ尽くし、飢えをしのいでゲージの金網でもかじり始めてしまっているかもいれない。うさぎは金網をかじりすぎると、不正咬合になって歯がへんな方向に曲がってしまうのだ。あるいは、その金網に爪を引っ掛け、骨を折ったり脱臼しているかもしれない。つけっぱなしのクーラーがこの猛暑で突然故障し、蒸し暑い部屋の中で蒸されているかもしれない。水がなくなり、自分のおしっこを飲んでいるかもしれない。頭の中に、定期的に見ていた夢の光景がありありと思い出される。衰弱しぐったりしているうさぎ。目の濁った動かないうさぎ。ミイラ化したうさぎ。実際に見たこともないのに、その光景はわたしの頭に実にはっきりと思い出された。その瞬間、恐怖で叫び出しそうになったのを飲み込むようにビールで白米と焼いた肉を喉の奥に流し込んだ。

「おう、よく食うな。うまいか。もっと肉食うか?」

上司が促してくれる。本当に優しくていい人だ。いつも良くしてくれて、わたしは毎日とても感謝している。でも今日はちがう。正直、肉の味もよくわからないまま口に詰め込んでいるだけだ。一刻も早く帰らなければ、うさぎが、ミイラにーーーーー

「すみません、明日朝早いの忘れちゃってました。」

立場や状況を一生懸命考え、やっと絞り出した精一杯の言葉だった。

 

マンションの前に着いた時はもう日付を超えていた。ドアを開けるのが怖かった。開けた瞬間、つい1週間前までしていた電気代節約生活の時の、あのもわっと湿り気を帯びた風が入ってくるのではないかと思って。でも開けないことには、まだ生きているかもしれないうさぎを救えない。わたしは一気にドアを開けた。

わっと冷気が全身を包み込んだ。鍵を閉め、いちもくさんにゲージに駆け寄る。「ただいま!」ずっと言いたかったのに言えなかった言葉をゲージに向かって言った。

うさぎは体を伸ばしながら夢中で牧草を食べていて、わたしが帰ってきたことなど気づいていないようだった。おいおいと思い、ゲージのすみを爪で軽くコンコンと叩く。すると「はいはいおかえり」と言い出しそうに、でもめんどくさそうにこちらを見た。どこ行ってたの!?というようなお出迎えとか、そういうのは一切無くて、黙々と牧草を口に運んでいた。ホッとして、肩の力がストンと抜けた。なんだこいつと思った。けど、なんか本当に良かった、と思った。クーラーが壊れていなかったことも、牧草があまっていたことも、うさぎが意外とマイペースなやつだったことも。

 

あの夢について、父の知り合いの夢を研究している人に聞いてみたことがある。心配事から来ている夢ですと言われた。随分適当だなと思ったけれど、よく考えてみれば19歳って浪人を始めた頃で、確かに大学院進学とか、就活とか、そういう不安定な時期に見ていたような気がする。無事就職して、独立して、この部屋にうさぎを招き入れてもうすぐ3週間が経つ今だって、心配ごとは沢山ある。

 

最近は随分お留守番に慣れたらしい。うさぎが慣れたというよりは、わたしが慣れたのかもしれないが。昨日、初めてゲージの外でおしっこをしてしまった。「すいません今おしっこ出てます」と言わんばかりに上目遣いで訴えるようにこちらを見て、自分の尻から漏れ出す温かい液体に何もできないでいるようだった。そっと抱き抱え、優しくトイレへ誘導し、おしっこをよく拭いて片付けた。この日々があと何年続くかわからないけど続く限り、この小さな動物に精一杯の愛情を注ぐことで、夢の中の小さな動物たちは、少しはわたしを許してくれるだろうか。

わたしのあそこ

動物に噛まれる夢を見て目が覚めた。股間がひりひりするのと同時に、熱を持ってメチャクチャかゆい。寝ている間にものすごい掻いてしまったみたいだ。抜け殻みたいに安物のショーツが足をつたってするりと抜けた。少し前にもこんなことがあった時に買っておいた、ピンクのパッケージの軟膏を塗ってみる。なんとなく静まったような、そうでもないような。

前回のとは明らかに違うなとは思っていた。環境の変化によるストレスとか、乾燥する季節とか、そんなあいまいで生易しい言葉で片付けられる程のものではない。起き抜けに気休めで塗った軟膏の効果なんて、朝の満員電車に吸い込まれて飛んでいってしまっていた。例えるなら15cmほどのミミズのような寄生虫を1匹飼っているような気分。そいつの機嫌のいい時わたしのあそこの一番末端のところで暴れまくるので、すかさずトイレにすっ飛んで、思い切り掻いて沈める。縮れた下の毛が床にぽろぽろ落ちて、爪と指の間に突き刺さって痛い。この無数の縮れ毛が密集してここをいい温度に保っていて、虫は居心地が大変よくてさらに上機嫌になる。小躍りしながら1匹が2匹になり、2匹は4匹になり、4匹は無数の虫になる。夜までに、そんな感じの地獄を味わった。

 

金曜日、1次会が終わる頃の街。人混みをすり抜け、真四角に切り取られた照明を目印に足を運んだ。同じくらいの年代の女性が大勢座っている。ホコリ一つ無いその空間で3桁の数字が与えられ、隅の方に腰かけた。

少し待ってから向かったその個室で、コガネムシがひっくり返ったみたいな体勢にされて入り口から中をじっくり見られる。天井に設置された小さなモニターに暗い道が映し出されているのに気づいた。少しだけ首を引き、大きく息を吸ってみると、お腹がゆっくり膨らんでいるのが見えた。わたしが息を吐くと、お腹は元の姿勢を取り戻した。暗い道はぴくりとも動かなかった。

感染症です。最近誰かと性行為はしましたか?」

寝耳に水とはこのことだった。最近いっしょに寝た相手とは、セックスと呼ばれる行為の、一番うわずみだけ掬っておしまいにしたはずで。でも、無いとは言い切れない。あのなかなかの濃密な絡みで、もしかしたら彼の手や口の中に残っていた微量の病原体が、超絶天文学的数字の確率でわたしの粘膜に伝わってしまったのかもしれない。だとしたらもう、運が悪かったとしか言いようがない。でもやっぱり信じられなかった。

 

あの時もしかしたら、わたしのあそこにはそれがぶち込まれていたのかもしれない。わたしが寝てる時とかに、知らないうちに。だとしたら超腹たつし、でもわたしの無用心さにはもはやなにも言えない。でも、もうなってしまった。この熱を持ったかゆみが、あの夜を証明しているだけだ。失意の中家に帰り、バッグから小さな白い薬袋を取り出した。

あの女医さんは治療さえきちんと行えば治ると言っていたが、帰る前にその治療法とやらを聞いて、軽くめまいを覚えた。女医さんは錠剤と言っていたけれど、錠剤と呼ぶにはにわかに信じがたい大きさなのだ。確実に、今までの人生で見てきた「錠剤」の中で一番大きい。一円玉ほどある平べったい、その、ああヨーグレットだ。ヨーグレットと考えていただきたい。ヨーグレットを毎日二回、わたしの一番深い所に入れておかなければならない。

ヨーグレットを薬局で買った時、わざわざ「今日はどうされましたか?」なんて死ぬほど恥ずかしい質問をされた。こんなこと、許されるだろうか。そもそもあそこのフォーマルな名称を知らないし。ヴァギナがかゆくて来ましたとか言えばいいの?下腹部?股?デリケートゾーン?まさかま◯ことか無いだろうな。色々わかんなくて黙ってたら何度も聞いて来るし。あの薬剤師、絶対に許さない。

これは、大きなペニスをねじ込まれることとは遥かに違う。だって、乾ききったそこに指を突っ込むのは、想像していた以上にしんどい。もう足の付け根から胴体が裂けてしまいそうなのだ。更に、自分の穴に指を突っ込むことができないオナニー恐怖症のわたしにとっては、もはや苦行でしかない。石鹸で爪の間まで指をよく洗い、あらわになった下半身を限界まで広げるために、ガニ股のまま中腰になって、和式便所に跨るような姿勢になる。中指にヨーグレットをのせて、恐る恐る指を中に入れていく。なかなか奥まで進まない。下の口はあからさまに拒否していて、最初ぺっと吐き出してしまった。「いや頼む、飲み込んでくれよ」もはや誰に声をかけているかわからない声が部屋に響く。奥へ奥へとめり込ませると、何かに反応してヨーグレットがしゅわしゅわ音を立て泡を吹き出す。最近ツイッターで話題になっていた、簡単ナス料理のレシピを思い出す。電子レンジで2分ほどチンされて、両親指を傷口にめりめりねじ込まれてそのまま真っ二つに引き裂かれ、中にバターをねじ込まれたナス。醤油とかつお節をかけられたそのナスはわたしに美味しくいただかれた訳だが、わたしのナスはまだいただかれるには待ったをかけられた、ばい菌持ちのナスだ。

若くして処女を失ったせいか、なんというか、今まで自分の下腹部を人ごとみたいに思っていた節があって、何かと便利な道具みたいに使ってきた。その意識が貞操観念の圧倒的欠如を招いていたのかもしれないのだけれど。思わず「ウッ」と出るその声は、もちろん快楽とは真裏の場所の、眉間にしわを寄せ口をへの字にした苦しみ100%の表情から漏れる、ウシガエルみたいな醜い声だ。突っ込む指は短く遠い。ヨーグレットを初めて一番奥に置いた時、26歳にしてわたしはわたしのあそこと初めて対峙した気がした。わたしのあそこは、ハサミとかホッチキスと同列の道具では決してなくて、正真正銘、わたしの身体の内側に開通する、深い道だった。

 

次の金曜日が来る頃には、かゆみは嘘みたいに無くなった。あまりの爽快感で昔より清潔になった気さえした。次にここを使うのはいつだろう。次に入ってくるものは何だろう。もしかして、そう遠くないうちにだれかの通り道になったりして。それまでにこの道で起きたことは、ヨーグレットのしゅわしゅわの泡に洗い流されてもう忘れてしまった。思い出せるのは婦人科の天井の小さなモニターに映った、誰もいない暗く静かな道のことだけだ。

わたしたちの冒険

久しぶりに会ったミサキは、人の蒸気が絡みつく新宿の雑踏に紛れていてもすぐにわかった。だって驚くほど何も変わっていなかった。短く切った髪、さっぱりしたメイク、個性的なワンピース。

わざわざ休みを合わせて会うほどの仲ではなかったけれど、ひとつ下の後輩だったミサキを、わたしは結構好きだった。大学を卒業すると、途端に会わなくなった。わたしたちは忙しさを理由にして、今まで特別お互いを必要としていなかったのだと思う。だから、

『久しぶりです!最近何してるんですか?久しぶりに例さんに会いたくなりました!』

と突然連絡してきたときは、嬉しさもあったが、もしかしたらネズミ講や宗教勧誘でもされるのではないか警戒してしまった。しかしそんな心配は、何も変わらない笑顔を見せるミサキを見ると、煙のように消えて行った。

ミサキから見ればわたしも大して変わっていないんだろうけど、もう大学生じゃなくなって久しいのに、ミサキの背後には不思議と人里離れた山の中の大学の景色が見えた気がした。

 

硬いコンクリートを踏みしめているミサキの頭頂部が左側に見える。そういえば、この子のことをこんなに汚い場所で見たことがなかったかもしれない。少し離れた場所にある喫茶店に入り、わたしたちはアイスティーとアイスコーヒーを頼んだ。

「例さん、最近なにしてるかなと思って!」

ミサキはまずわたしの話を聞いてくれた。会社の話や新しいアパートの話、飼い始めたウサギの話、なんだかんだで毎日平和にやっている話。引き出しから古い服をぽいぽい引っ張り出すみたいに、そういえば、そういえばといろんな話をした。

「わたしはそんな感じかな。ミサキは最近どうなの?高橋くんとは順調?」

高橋くんとミサキが付き合っていることは、学年の違うわたしたちの中でも周知の事実だった。高橋くんというのが、この平成時代を生きているとは到底思えないくらいピュアな男の子で、ミサキもミサキでまっすぐなひとだったので、二人が校内を歩くと歩いた後の空気が浄化されるような気がしていた。そんな二人が離れることはなかなか考えづらかったが、一応聞いてみたのだった。

「それが・・・高橋くんは忙しくてあんまり連絡を取っていなくて。それより実は大変なことが起きちゃったんです。もしかしたら嫌いになっちゃうかもしれないんですけど、」

ミサキは重い口を、でも誰かに聞いてほしそうなそぶりでその話を始めた。ミサキは新卒で入った会社で一番仲の良かった同期と、忘年会の帰りの夜を二人きりで過ごしてしまい、それ以来週に2回は彼の家に行くようになってしまったのだった。本当は高橋くんに申し訳ないからこんな関係やめたい、でも毎日顔をあわせるからなかなか思いを断ち切れないでいる、でも高橋くんのことも結構好きになってしまって、なかなか「友達に戻ろう」とか言えない、それどころか別の女の子の影もちらついてて、そっちに嫉妬してしまってるけど自分には高橋くんがいるから生意気なことは言えない、・・・。

クリーンなイメージしか抱いていなかったので、ミサキの身に起きていることについては少しショックだったけれど、わたしはそんなミサキが少し羨ましいとも思った。わたしだって日々いろんなことがあるけど、なんだかんだ幸せだったなと思いながら眠りにつく。今晩だってきっとそうだろう。枕を濡らすほど深くまで陥れられる夜は、久しく来ていないかもしれない。でもそれは、わからないけど、この毎日が続いていて大丈夫なんだろうかといささか危機感さえ感じていた。だからといって自分から不幸に顔を突っ込みたくはないのだけれど。

ミサキの口からは相変わらず糸でつながれた言葉たちがふわふわ浮遊しているようだった。こうして話した後も、その言葉はまたミサキの唇の裏に引き戻されるだけで、ミサキを苦しめるのだろう。

「もうさ、第三の男を作って、そっちに力を分散させた方がいいと思う。」

「例さんならどうやって作りますか?」

「うーん、出会い系やるかな・・・」

「出会い系は身バレが怖すぎるな。同じ大学の人と会っちゃったら大変なことになりかねない。」

ミサキの背後の窓から、夜がだんだん深くなっていくのが分かった。曇りガラスには、筆先から赤、青、黄色の絵の具をぽたぽた垂らしていくみたいに、いろんな色の滲んだ点があやしく広がっていた。

「ねえねえ、ナンパされに行かない?」

「え、ナンパ?」

「うん、なんかゴールデン街と近いし。ありそうじゃない?そういう出会い。」

完全に思いつきだった。わたしたちはいつも着たい服を、したい髪型を、話したい話をしてきた。だから、男性からどうやって声をかけてもらうか、よくわからない。でも、今のわたしたちには冒険が必要だった。

「いいですね!今すぐ行きたくなってきました!!」

「行こう、ミサキ!」

「行きましょ!いい男と出会えるまで、わたし帰りませんよ!」

「わたしもだよ!」

飲みかけのアイスティーとアイスコーヒーを置いて、わたしたちは残暑の夜空の下を歩いた。ミサキの背後に映る絵の具の点は、もう滲んで見えない。濃いねずみ色の歩道の真ん中で笑うミサキは、結構この街に似合っているなと思った。わたしとミサキは、揃わない背丈で足並みを揃えながら、さっき来た方向とは反対の、深い深い新宿の奥底へ歩いて行った。

半分の夜

子供の時母から一人用の敷布団が与えられてから、わたしにとって夜とはずっと一人のものだった。

たとえ家ではない場所で同じ布団を誰かと分かち合って、その下で互いの手が触れ合っていたとしても、その夜を誰かと分け合っているという意識は感じたことがない。男の頭を抱えて寝るのが好きだが、朝になると結局その手は離れて、虚無だけをつかんでいる。その事実にもう諦めているところがある。

『明日はうまくいくと思う。』

夜空が見えない窓に向かって話をするように、でも頭の中だけでそう反響させるだけで、本当にその言葉通りになるような気がした。

「明日はうまくいくと思う。」

この広すぎる部屋に引っ越してからは、頭の中だけに反響していたはずの声が無造作に置かれた冷蔵庫の裏やベッドの下に消えて行った。

 

この部屋の第二の住人にうさぎを受け入れようと決めたのは、先月のこと。安くて鳴かなくて世話がしやすいことに惹かれた。

垂れ耳のうさぎ・ロップイヤー目当てでペットショップを周り、相場や大きさなどだいたい把握した。何件目かのペットショップの薄汚れたゲージのガラス越しで、多くの小さな仲間に囲まれて、そいつはじっと目を閉じて時間がすぎるのを待っていた。別のうさぎの半額以下で叩き売りされていた、ネザーランドドワーフ

「このうさぎ、なんでこんなに安いんですか?」

「正直小さい子の方が売れるんですよ。この子は少し大きくなりすぎてしまったので、この値段なんです。」

確かに他のうさぎに比べると明らかに大きい。でも生まれた早さは2ヶ月やそこらの違いだ。それにこのうさぎの毛の模様は妙に色っぽくていい。耳なんて、ベロア生地みたいだ。気づいたら、このうさぎとの生活しか考えられなくなった。

「ほら、今度の火曜日、ママが迎えに来てくれるから、いい子にちて待ってるんでちゅよ~。」

店員があやし始める。抱っこして背中をポンポンする店員の背中越しに抱かれるうさぎの目とわたしの目が合った。

 

数日後、わたしとうさぎはタクシーに揺られながら20分ほどのその道のりを辿っていた。粗末な段ボール箱の中でうさぎは最初暴れまわっていたけど、そのうちぴたっと静かになった。

家に着いて段ボールを開けると、うさぎは端の方でおもらしをしながらガタガタ震えてこちらを見上げていた。

「ごめんごめん、怖かったね。ここは怖いところじゃないよ。」

うさぎを抱えて、ゲージに入るように促した。

 

初日からベタベタ触ったり見すぎてはいけないとのことだったので、少し離れたところで見守りながら話しかけることにした。

「あんなに赤ちゃんことばで話しかけて、あの店員失礼だと思わない?」

移動の疲労でお腹が空いていたのか牧草にむしゃぶりついていたうさぎが、少しだけこちらを見た。そのまま横にバタッと倒れて、足を伸ばした。ショップで聞いていたよりも肝が座っているような気がした。

 

そういえば昨日は眠れなかったんだった。今まで当たり前に一人で過ごして来た夜が二人のものになるかもしれないなんて、考えただけでどきどきした。

「明日はうまく行くと思う。」

今まで冷蔵庫の裏やベッドの下に吸い込まれて行ったその言葉は、大きくて長い耳に届き続けるだろうか。わたしはこれからしばらく、彼女と夜を半分ずつ分け合うことになった。

記念品

休み時間。教室から少し離れた先にあるトイレは、花のような香りとほのかな酸っぱい匂いが立ち込めていた。鏡の前では、無数の女の子たちが所狭しと並んで化粧を直している。ブラウスの肩と肩が少しずつ触れ合うその隙間に、わたしはいつものように体を斜めにして肩をめり込ませた。冴子の肩だった。

冴子は待ってましたと言わんばかりの表情でわたしの顔を見て、ニヤッとした。そして耳元で囁いた。「ねえ、援交してるの?」

一瞬、時が止まった気がした。わたしも小声で返す。

「誰が言ってたの?」

「それは言えないけど、噂では何度か聞いたよ。本当なの?」

耳たぶに熱を帯びた血が集中し始め、そこから顔いちめんに広がる過程がわかる。心臓の音が口から冴子に聞こえないように、唇をきゅっと噛みしめる。考えれば考えるほどわからない。どうして、どうして。

 

いつも携帯からアクセスする出会い系サイトは決まって3つ。18歳未満でも登録無しで連絡先交換ができるようにするために、3つはどれも「メル友募集」を謳って開設した掲示板のような作りになっている。18歳未満の出入りの理由は、わたしのようなマセガキが単純に大人の男の世界が知りたくて飛び込むこともあっただろうが、大半は援交・ブルセラでお金を稼ぐ類の女の子だったと思われる。現にパンツ5000円とか、ホ別イチゴとか、書き込みは常に視界に入っていたけど、特別興味もなかったので流して見ていた。体を張って幾らかの金を手に入れるくらいだったら、その掲示板にわずかに出入りする、狭い界隈で名の知れたバンドマンや有名人の時間を独り占めすることの方が、わたしにとってずっと価値あることだと思っていたからだ。

でもこの時のわたしは違った。最新機種の携帯電話が欲しくて、猛烈にお金が必要だと思っていた。そのためなら体を売るのも厭わないと思って、いつもと少し違うテリトリーでターゲットを探すのだった。

わたしの年齢に反応したある人物と、後日会うことになった。

 

彼は、10代の女の子しか性の対象として見れない男性だった。職業は医師で、容姿も悪くない。彼もまた、こういった取引は初めてだと言っていた。わたしたちはお互い少し距離を取りながら歩いて、都会ではもう珍しくなった古いカラオケボックスに入った。

電気を完全に消し、声が聞こえないように音を最大にし部屋の死角に座る。学校のロッカーから持って帰ってきた体操着を傍にスタンバイさせておく。この時はまだ、そこまで緊張していなかった。その慣れた手つきを、彼はじっと見ていた。

「なにかありました?」

「いえ、何も・・・。」

そう言いながら、彼はリモコンを手に取り始めた。

「え、なんか歌うかんじですか?(笑)」

「あぁ、ちょっとまず気持ちを落ち着けたくて。」

彼は90年代に一瞬だけ大ブレイクした男性バンドの曲を熱唱し始めた。やることちゃちゃっと済ませてお金だけ欲しかったわたしは、少しでもこの時間が長くなることに苛立っていた。ひっきりなしに画面に流れる、青春とか、風、扉、みたいな明朝体の文字は、随分重たくて虚しく感じた。

ひとしきり歌い終わってから、彼は言った。

「やっぱりこういうことするのやめよう。君もこういうことするの初めてなんだろう?体で金を稼ぐことに味を占めちゃだめだよ。もしお金に困ってるんだったら、俺があげるから。」

彼は財布をガサゴソ弄り出して、2万円をわたしの手に持たせた。

「いや、エッチしないならそういうのいらないです。」

「いや、受け取ってよ。お金、まだあるから足りなかったら言って。それにまだ時間もあるし、カラオケしようよ。」

少し悩んでからわたしは、ほら、と手渡されたマイクをとりあえず握った。オレンジジュースの氷が、溶けてコップの中に半透明の層を作り出していた。

 

「楽しかったね。はい、これお小遣い。」

彼は3枚の万札をわたしに手渡そうとしてきた。エッチする約束だったのにさせずに楽しませてお金だけ払わせるなんて、流石にちょっと悪いと思った。

「やっぱりいらないです、お金。」

「なんでよ。記念だと思って持って行ってよ。」

記念。随分都合のいい言い分だと感じた。

あれだけしたかったセックスさえ断った俺が汗水流して稼いだ3万円で好きなもの買えってか。なにが記念だ。そんなもの、なんでわたしが手元に持っておかなきゃならないんだ。ていうか、そもそもなんで見ず知らずのお前と会った記念にこんな大金背負っておかなきゃならないんだ。重すぎる。重たすぎる。

結局、3万円は、物悲しそうに彼の財布に入って行った。

 

これでセックスしていたら、もちろんきっちりもらっていた。やることやったからそれの対価として。セックスで稼いだ金は汚いなんて一部の人は言うけれど、押し付けられて勝手に満足・納得されるための記念の金の方がずっと汚らわしい思った。

その怒りは一瞬でわたしの耳から頬を熱を持って駆け巡った。わたしは目をまん丸にさせながら大声で言ってやった。

「冴子、わたしやってないから!!」

一瞬トイレがしん、と静まり返り、誰かのマスカラが、コトッと落ちた。