ポルノとファンク

昨日は彼氏とカラオケに行った。いつものように各々好きな歌を歌っていたが、わたしの松浦亜弥を皮切りに、00年代のMステスペシャルみたいなラインナップになった。いきものがかりORANGE RANGEaiko、ポルノ。ポルノだけやたら歌い方がアキヒトっぽいねと指摘したら、自分の胸から腰を両手でめいっぱいさすりながら、ポルノは俺の血肉だから!と高らかに宣言していた。

今やファンクやジャズが好きな彼のどこを辿ればポルノの血肉にたどり着くのかが全く想像できなかったが、きっと秘密のルートがあるのだろう。それとも、そこまでの道は断絶されたか、もしくは血肉ごとすでに体外に排出されてしまって存在した痕跡だけがたまたま残っているだけか。

 


なにか悲しいことがあっても、いずれ血となり肉となるのだろう。ていうか究極、日々を過ごしているだけで、きっと血となり肉となるのだろう。そう解釈して納得することは、優しくて甘いことだ。出来事の良かったところだけを掬って集めて、胸のうちに大事にしまっておける。

 


血肉となった音楽には、音楽があって、音楽を聴くための機械があって、それを聴いている自分がいて、その自分がいる部屋や周りの環境がある。それがたとえ味気ない灰色の景色だったとしても、すこしだけなにかに反射した光が、今、何年かの時を経てマイクを通って外の空気に触れた。

いくら知らない音楽を教えてもらっても、わたしが知れるのは彼の声が乗ったきらきらのメロディーだけで、彼の血肉がポルノからファンクへと変化していった先にあったはずの灰色かなにかの色の景色を、永遠に見ることはできない。そういうことに、一抹の寂しさを感じたりした。そんな日曜の夜だった。

会社を休んだ日は

目が覚めるとみぞおちのあたりがひどく痛んだ。開けっ放しのトイレに駆け込んでしばらく踏ん張る。鼻で叫ぶ。腹を目一杯さする。

昨夜は料理する気も起きない日で、随分昔に買っておいた激辛インスタント麺を茹でた。電子レンジで。丼に乾麺とかやくを入れ、ひたひたに濡れるまで水を注いで、蓋を閉めずに600Wで6分。麺が少し固かったからか、激辛が体調に合ってなかったからか、真相はわからないけど、どうやら腹を壊したらしい。

5分に一度、波が訪れる。波が収まるまでは動くことも困難だ。家を出たら8分は歩かなくてはならない。このまま家を出たら駅に着く頃には、きっと取り返しのつかないことになっているだろう。とりあえず、午前中だけ会社を休むことにした。

 


申し訳ない気持ちでいっぱいのまま男性の上司に報告すると、大丈夫?無理しないでね、と返事が。本当に優しくてありがたいけど、腹痛まで報告してしまったので月経だと思われるのはなんだか忍びないな。一部の界隈で、生理を恥ずかしいことだと思わないムーブメントが起きていて、すごいなと思う。わたしはまだ恥ずかしいと思う側の人間。午前中しか休みを取らなかったのも、きっとその思考の延長線上にあると思う。早く向こう側に行きたい。

 


そんなことを思っているとまた腹痛が襲ってきて、大きなライトグレーのラグの上に寝転がってうーうー言った。ラグの毛が目に入りそうになって、目で払う。こんなにごわごわしてたっけ。うさぎが心配そうにこちらを見ている。

寄せては返し、寄せては返しの波の中。なぜか全く関係ないことばかり頭に浮かぶ。あれやんなきゃとか、あのこと考えなきゃとか色々思ってたけど、結局ぽつぽつ浮かんでは消えた。11時半には波は弱まり、そういえばラグがなんとかって考えてたよなと思い出し、手を伸ばしてスマホを取った。『ラグ洗い方』で検索する。浴槽での踏み洗いが有効らしい。

冷静に見渡すと、この部屋は余裕がない。脱ぎ捨てられた服、置く余地のない机。午後の出勤まであと2時間ちょっと。こういう時間って、こういうことをやるためにあるのだろう。

 


脱ぎっぱなしの服を一枚一枚畳み、押入れに入れる。そしてめりめりとラグをめくる。意外と重たくて尻餅をつく。うさぎはなにが起きたのか理解できてなくて、うろたえている。

やっとの思いでラグを持ち上げると、なんだわたしだって休めるじゃないかと思った。「腹痛おさまったらすぐ行きます!』とか言わなくてよかった。これはわたしが勝ち取った午前休だ。今日わたしはやっと休めたのだ。その証拠にこのラグを洗ってやる。そして洗いたてのふかふかのラグに横たわって今日はうさぎと眠るのだ。

やってやったぞと言わんばかりの表情でふと外を見ると、レースカーテンの受ける形がやたら激しくて不安になった。天気を調べてみると、東京ではこれからよくわかんない時間に雨が降るらしい。わたしはラグをそのままその場に置いて、しばらくその上に座ってしまった。うさぎはお気に入りのラグが戻ってきて嬉しかったのか、ぴょんぴょこ走り回っていた。

さっきまで遠くで響いていた体育の時間の声は、もう聴こえなくなってしまった。次にラグを洗う気になるのは、この部屋を引き払う頃かもしれない。心の入る余地のない時間が、あと1時間で始まる。それは永遠に終わらないように思えた。

平日ではない名前

ゴールデンウィークの間、わたしは完全に西片例だった。

 

何を言っているか理解できないと思う。わたしもあまりわかっていない。

西片例という名前は、わたしがわたしにとりあえずつけた名前だ。この名前は非常に便利で、絶妙に本名っぽいから本名と思われることもあるし、でも本人はHNのように様々な場面で多用している。

この連休の間、本名の殻を脱ぎ捨て、わたしは思う存分西片例をやった。2年ぶりとなる展示。その前後の準備で、西片例として使用する機材や工具を購入した。西片例として知り合った友人と会った。途中でお腹が空いて、わたしは西片例の体に食べ物を詰め込んだし、その食べ物は西片例が排出した。なんか楽しくなって、はてなブログのデザインを変えたり、次回の発表について考えたりもしていた。

仕事で忙しくしてると、それ以外のことがどうしても疎かになってしまう。西片例もそうで、創作する意欲が全くなくなってしまって、ツイッターに短文を書き込むのすら嫌になってしまう。しかしそんな自分から距離を置くことで、わたしは心から西片例を楽しんだ。

 

今日は少し会社で仕事をした。9日ぶりに戻った机はどうしてこんなにとっちらかっているのかがわからなかった。まるで1000年くらいほったらかしにされていたかのような、不思議な孤立感を醸し出していた。座って作業してみても、靴下が裏返っていることを知らずにそのまま履いているような違和感がある。ついこの前までここに1日座って作業したり、電話を取ったり、ご飯を食べたり、全てをしていたのに。思い出せない。

 

しかしこの机もあと一週間経てば、また本名の自分で汚されていくのだろう。本名の自分とは所詮、平日の自分を言い換えただけだ。その事実に気づいて悲しくなって、わたしは、西片例をまだやりたいなと思った。

 

2年前に作った西片例の名刺が、2日間の展示で見事に捌けた。次いつ西片例として人に会うのかわからないけど、追加で入稿しておいた。到着は木曜日。せめてそれまでには、わたしが平日のわたしに毒されていませんように。

作品「the empties(仮)」について

明日と明後日、修了ぶりに新作を発表します。

題名は「the empties(仮)」。明日ちゃんと決めます。

以下、概要文的なやつ

 

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なにか目に見えない、でも大事な時間がものすごいスピードで進んでいることはわかる。ニュースによるとどうやら時代は本当に変わるらしい。日々がどんな形であるかも全て把握しきれぬまま、知らぬうちにふっと消えてしまいそうな気がした。

 

だからただ記録しておきたいと思った。もう永遠にやってこない平成30年、27歳、この狭いワンルームで生きていたという事実を。

 

毎晩コンビニで購入するドリンクをメディアとし、生活を記録する。

封を開けて中身を飲み干し空になるまでの時間を蓄積してきた。

 

開けられた封は、もう二度と閉じることはない。ものがわたしを経験し、わたしとともに風化していった過程を、いまここに蘇らせる。

 

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展示概要

展示期間:5/3-5/4

イベント名:SICF20 https://www.sicf.jp/information/

場所:表参道spiral 3F 

goo.gl

 

 

朽ち果てるその前に

19歳の時、予備校に行く道で顔からコケて、前歯が少し欠けてしまった。すぐさま周りの大人に歯医者に連れて行かれ、欠けた部分を補うように詰め物を施し、元どおりの前歯の形に仕立ててもらった。

時は過ぎ22歳の頃、学食でカレーを食べていたら、その前歯の詰め物が取れてしまった。歯医者へ行くと、詰め物の隙間から食べかすが入り、虫歯ができてしまっているとのことだった。大人虫歯によくある事例らしい。詰め物の色は変色しなんとなく違和感があったので、取り替えるのはちょうどいいと思った。4年前に割れた場所を少しだけ削り、少しだけ大きな詰め物に付け替えてもらった。

さらに時は過ぎ25歳の頃、大学院でポテチを食べながら作業していたら、前歯の詰め物が取れてしまった。歯医者へ行くと、詰め物の隙間にまた少しの虫歯ができているとのことだった。紅茶にハマってステインで元の歯が少し茶色くなったせいか、詰め物との境目も目立って来ていたので、ちょうどいいと思い、6年前に割れた箇所をまたさらに少しだけ削り、さらに大きな詰め物に付け替えてもらった。

そしてさらに時は過ぎ27歳、会社で夜ご飯を食べていたら、前歯の詰め物が取れてしまった。20時を回っても営業している歯医者をなんとか見つけ出し、すぐさま駆け込んだ。案の定、詰め物の隙間には少しの虫歯ができているとのことだった。紅茶はもう飽きたし詰め物も変色してまるで毎日歯に何かが挟まっている人みたいでとても違和感があったのでちょうどいいと思い、8年前に割れた箇所をもう少しだけ削り、さらに大きな詰め物に変えてもらった。

「詰め物が大きくなって欠けやすくなってますから、固いものはあまり食べないようにしてください。欠けたらまた取り替えますけど、もしあまりに欠けるようでしたら被せる方法も考えますので、その時は言ってください」

前歯のこれからについて言及されたのは、これが始まりだった。

 

身体に精神が追いつかなくて、自分は歳を取らないと信じている節がある。半年前、アラサー用のパックを初めて試してみた時、あまりのフィット感を信じたくなかった。健康な皮脂も、歯も、髪も爪も、いつまでもあるものだと思っていた。

もうわたしの体は成長しない。あとは朽ちていくのを待つだけだ。

その朽ちて行く身体をなんとか維持するため入れ替わり立ち替わり人工物を継ぎ足しているけれど、その度に自分の細胞の面積を擦り減らしている。そのせいで1つの細胞の集積所が、立ち退いてしまいそうになっている。

こんなこと意味があるのだろうか。でも維持しなければならない。まるで綺麗な時間だけが自分の前を常に通り過ぎているように見せていたいから。

19歳の過ちはもう戻ってこない。今のまま止まってもくれない。時間は進むのみ。3回目25歳の時までは買えなかった電動歯ブラシとちょっといい歯磨き粉で、これから自分の前を過ぎ行く時間を、永遠に綺麗に見せることはできるだろうか。

糸をかき分けて

実家を出たと同時に、必要のない縁は全て切れたと思っている。それと入れ替えにいい縁も舞い込んで、わたしの周りはだいぶ整理整頓された。


実家にいた頃は逆で、縁で溢れてた。大事な縁も、そうじゃない縁も。家族とは反りが合わない、担任は会えば進路相談の話をしてくる、クラスメイトは一度ハブられてから本当の友達だと思えない、まだ10代なのに求婚してくる彼氏には困ってる。身の回りの人間関係がまるで整理整頓されてなくて、ぐちゃぐちゃになった糸みたいに絡まっていた。とにかく自由になれる場所を常に探していた。ぐちゃぐちゃをすべて切るほどの勇気はなかったから、かき分けるだけで見渡せる世界を。

 


 17:30、新宿駅東口の改札を降りる。18時コマ劇前の待ち合わせにはまだ早すぎるので、地下改札前のランキンランクイーンでも見ながら時間を潰そうとしていた。

『もう着いちゃって暇ー。誰か着いてる?』

チャットのスレッドに高速で打ち込む。ガラケーのブラインドタッチは得意分野だった。今日の参加者を確認しようと、書き込まれた参加者リストを探そうと連続で▼ボタンを押していた時、後ろからとんとんと肩を叩かれた。

「イルカちゃん?」

「ぴーすけ!今日来るんだね、知らなかったー。」

『ぴーすけ』は、県外の大学に通う大学生。留年か休学かよくわかんないけど、とりあえず大学で問題を抱えてるらしい。背丈がわたしと同じくらいで、モッズコートを着て無精髭を生やしている。

「俺は大体毎回参加だよ。イルカちゃんも毎回参加でしょ。コマ劇前にいけばもう誰かしらいると思うから、行こう」

「うん!」


夜が始まる前のコマ劇前はいくつかのグループが円を作っていて、ぴーちゃんは一番真ん中の円に飛び込んで行った。

「お前らもう集まってんじゃん。イルカも捕まえたから拾ってきたわ。」

サークルを作る10人程の顔をざっと見ると、見慣れた顔を見つけた。

「あっ、みるちゃーん!」

『みるちゃん』はわたしのことを一番可愛がってくれるお姉さんだった。ピンクのイヤリング、ピンクのカチューシャ、ピンクの爪といったようにピンクのアイテムをよく身につけている、かわいらしい女性だった。

「イルカたん久しぶりだねえ。元気だった?」

「うん!みるちゃんに会えてうれしー!」

わたしとみるちゃんがハイタッチしながらぴょんぴょん跳ねるのを、ぴーすけは笑いながら見ていた。


サークルはぞろぞろと近くのカラオケ店に向かう。わたしたちはこうしてチャット上でカラオケの約束を取り付け、歌うだけ歌って解散するという会を頻繁に行なっていた。

「俺ACだよ。イルカちゃん、ほんとにJKだったwww」

「あ、あなたがAC?はじめまして!」

チャット上で何度も絡んだ人と初めて会うこともあった。でも書き込まれた文字に置き換えるとそんなに違和感がない。わたしたちは初対面でももう何度も会話してるみたいに、自然に話すことができた。

大部屋に移され、すぐさまドリンクバーへ向かう。まだ寒いのでホットココアを小さなマグカップに入れる。おしゃべりに夢中で、大抵飲む頃には冷めてしまっているのだが。

部屋に戻るとすでにカラオケは始まっていた。男性の比率が高いためか、部屋はうっすら蒸気を帯びている。当時流行っていたエロゲーの主題歌を男の声で歌う盛り上げ役の『じゅんた』。それを見て「テラワロスwww」と少し大きな声で言う『そさりー』。ワロスって口に出すとそう発音するんだ、と思って、わたしもそさりーの真似をして「ワロスwww」と言った。

大音量の音楽が流れる空間で、大した会話はできない。学校の話も身の回りの話も、天気の話みたいな其の場凌ぎの話は全て歌声の濁流に流される。だからいつも大声でわざわざ話すことといえば、チャットでしていた他愛もない話の延長線上。それも、実際に会ってしゃべると格別に楽しい。誰かが煙草を吸っている。あの箇条書きに並べられたハンドルネームの誰が煙草を吸うのだろう。煙臭くなる制服のスカートを少しだけ気にしながら、リアルとバーチャルの狭間で、わたしはお腹が痛くなるくらい笑っていた。


8時が近づいて来た。この楽しい会を、わたしはもう出なければならない。こういう時、門限と言うのがはずかしくて、「明日も朝早いから」と言って帰る。

毎回みるちゃんも同じ言い訳で帰るのがうれしかった。今日はなぜかぴーすけも付いてきたので、3人で一緒に帰ることにした。

明日から、いやあと何十分後かから、現実が再開する。本当はみんなとまだカラオケしてたい。でもこんがらがった糸がこちらに引き戻そうとする。2人もほんとはまだカラオケしたいと思ってるのかな?わたしみたいに門限があるならわかるけど、大人が早く出てきた理由がわからなくて、なんとなく

「そういえば、みるちゃんって普段なにしてるの?」

と聞いてみた。みるちゃんにプライベートなことを聞いたのはこれが初めてだった。

「みるは何もしてないよ。」

返ってきた言葉がよく理解できなくて、ふーん、と返した。

「みるには色々あるんだよ。」

ぴーすけが何かしら含みのある言い方をする。急に色々と聞いてみたい気持ちになった。当たり前だけど、みるちゃんにもぴーすけにも生活があることを思い出したのだ。でもすでにまずいことを聞いてしまったかもしれないと思って、みるちゃんにごめん、と言った。

「謝らないで。ぴーちゃん、そういう話はいいから。」

「そうか。俺もいろいろあるしな。今日楽しかったな!」

「ぴーちゃんの話は聞いてないよwうん!またカラオケしようね。」

「またいこーねー!」

花びらを伴った追い風が吹く。まだ始まったばかりの歌舞伎町の夜を尻目に、わたしとみるちゃんとぴーすけは駅に吸い込まれて行った。

血を抜かれた日

10代の頃、知らない人と会っていたのは暇だったからだと話すと、東京の子っぽいなあと言われた。自分は生まれてこのかた東京でしか暮らしたことがないので、はあ、という感じなのだけれど、本当にあの頃会ってた人たちって、この自分じゃ埋められない時間をただ埋めるための人たちだったから、どんな人が来たかとか、正直それほど覚えていない。

でも、そう考えたいだけなのかもしれないと思う。だってたしかに封じたはずなのに、いまだに記憶が存在しているような気はする。なかったことにしたくて、取り急ぎその証明までしに行ったのに。

 

新宿の雑居ビル低層階。真っ白い蛍光灯の下、待合室は肩と肩が触れてしまいそうに狭い。少しやぶれかけた黒い合皮のソファに座って、わたしは自分の番号が呼ばれるのをじっと待っていた。

 

きっかけは、たまたまとあるHIV患者のブログを発見したことだった。かつてHIV患者は同性愛者の病気だと言われて来た時代があって、正直知識のなかったわたしもそんな認識だった。まさか自分がなると思っていなかった、と繰り返していたブログの主は、異性愛者だった。

ふと昔のことが頭を過ぎった。高熱、帯状疱疹、疲れ・だるさ。数えきれない「次の日」の中で、そういえばそんなことがあったような気がする。あれは狭いベッドでぎしぎしと身を寄せ合ったただの名残なのか、それとも病魔に蝕まれ始めたサインだったのか。

 

しばらく目を瞑っていた。身体に何か起きていたらあの頃のわたしが染み付いていることになるけど、もし何も起きていなかったら、今までの日々のことは全てなかったことにしよう。そう、あの日々はわたしだけが知っている思い出。わたしが忘れられれば、もう存在しないと同じなのだ。今日をもって潔白を証明し、新たな人生を歩もう。そう考えていると自分の番号が呼ばれたので、意を決して、カーテン奥の空間へ入った。

 

言われるがままに左腕の袖をまくる。チクっとしますよ。全身を流れる血は、太い注射針に繋がれたチューブを勢いよく通ってゆく。突然目の前が真っ暗になって、医師の姿が映し出された。愕然としている自分。手元には診断書。さすがになっていないだろうと思っていたし、もしかしたらそんな気もしていた。治るかわからない病気を患う恐怖でいっぱいになる。この直後半分の確率で起こりうることを受け入れる自信がない。なんで身体に熱を持ったあの日、だるいと思ったあの日、病院に駆け込まなかったんだろう。なんで自分のしたことを受け入れず今に至ったのだろう。これから起こることが怖い。怖すぎる。

わたしは気づいたら肩で息をしながら泣いていた。

「大丈夫、怖くない怖くない。」

看護士さんはその涙の訳を知っているのか知らないのかわからないような口ぶりで、でもあやすように背中をさすってくれた。カーテンで仕切られた空間に、ポンプの音がドクドクと鳴っていた。

 

地獄のような待ち時間を3時間ほど過ごしたあと、もう一度病院戻り、そのまま帰宅した。手には陰性と書かれた紙を持って。

血まで抜いて検査したら、クリアになると思っていた。実際、あっという間にクリアになった。あるか、ないかが。「見える」という意味ではクリアになったけど、これは「なかったことにする」という意味でのクリアでは無い。それに今更気づいてしまった。

 

わたしはまだ「暇だったから」以外の理由を見つけることができない。多分あの血を抜かれた日、病気への恐怖で本当の理由を忘れてしまったのだ。なかったことにできないまま。もうあの頃のわたしに、どうしてあんなことを繰り返したのか聞くことはできない。血はまだ、わたしの体内の隅から隅をぐるぐると巡っている。